たびときどきにっき(インドネシア編
MAIの部屋に戻る

旅の準備編

たびときどきにっき(中国編 2001・3・23〜5・2)
たびときどきにっき(パキスタン編 2001・5・2〜2001・7・6)
たびときどきにっき(タイ編 2001・7・6〜2001・7・11)
たびときどきにっき(マレーシア編 2001・7・11〜2001・7・20)

2001年7月20日 メダン到着

ペナン島からインドネシアのスマトラ島のメダンにフェリーで移動。約5時間。入国は非常にスムーズに進んだ。ミニバスの客引きに腕を引っ張られるのを振り切り、無事フリーバスに乗り込めた。バスの中にいたホテルの客引きにそのままついていき、Zakia Hotel(ドミ8000ルピア)にチェックイン。メダンは、インドネシアで一番危険らしいので明日トバ湖に移動したい。

ホテルにたむろしているおっさんが、ツアー会社と両替屋に連れて行ってあげよう、と言うので徒歩で案内してもらった。おっさんは、いかにメダンが危険かという事を説明してくれ、防犯方法まで教えてくれた。買い物に行く時に使う分だけATMで下ろして、普段は現金を持たないらしい。持ってると盗られるから。こわい、こわい。

無事明日のトバ湖(パラパッ)行きのツーリストバスを予約(37000ルピア)。次に両替屋へ。レートは 1$=9100ルピア。金曜日で、もう銀行も閉まっている時間だし、むちゃ悪いレートだけど$200両替した。(トバ湖はメダンよりレートが悪いらしいので$200も替えたけど、本当はトバ湖の方が良かった!2万ルピア近く損しました)。

連れて行ってくれたおっさんが、ガイド料を要求したらどうしようとずっとドキドキしてたけど、ホテルに送り届けてくれたあと、どっかに行ってしまった。いい奴だ。でも、きっと両替屋からコミッションをもらっているに違いない。

2001年7月21日 トバ湖へ

11時30分にツーリストバスがホテルにピックアップに来る予定。今までの旅の経験上、時間通りにくる訳が無いと思ったので気長に待つ。たむろしているおっさんたちが、「インドネシア時間というのがあるから、時間通りには来ないよ。日本人は待つのが嫌いみたいだけどね」と言ってくる。待つのは慣れた。12時10分頃、おっさんたちが「遅すぎる。オフィスまで行こう」と言うけど、私はまだ待ってたら来た。20人くらいのツーリストが乗っていて、私は最後だった。日本人がいない!ちょっと焦る私。日本人がいないなんてめずらしい。

4時間でパラパッに着くとのこと。途中ブキティンギで40分休憩。結局80分休憩したけど、パラパッまで7時間で到着。そこから船に乗る。乗るときに泊まりたいGuest Houseの名前を言えば、そのGuest Houseの船着場で止ってくれる。ペナン島で同じGuest Houseに泊まっていた日本人に良いGHの名前を聞いていたので、そこに行く。トゥットゥッとアンバリータの間にあるSony's Guest House。

夜9時前に着いた。部屋はとてもきれいでバスタブ付きのホットシャワー。日本を出て初めて湯船につかった。かなり感動。最高!。メダンは暑かったけど、トバ湖の夜は肌寒い。

2001年7月22日 トバ湖

少し散歩。インドネシア語で散歩はジャランジャラン。景色は南国〜!って感じ。とっても田舎。何も無い。バナナの木がたくさん。

2001年7月23日 トバ湖

Sonyには日本語の本がたくさんあって、吉川英治の「三国志」が全巻揃ってる。2時間ほど日なたで読んだら足が真っ赤に短パン焼け。

2001年7月24日 トバ湖

ペナン島で同じドミトリーだったアメリカ人の女性が来た。満室だったので私の部屋をシェアすることにした。15000ルピアが7500ルピアになるので私にとっても良いし。日焼けが痛い。歩くのも困難だ。

2001年7月25日 トバ湖

日焼けが痛い。

2001年7月26日 トバ湖

日焼けが痛い。

2001年7月27日 トバ湖

日焼けが痛い。

2001年7月28日 トバ湖

日焼けが痛い。

2001年7月29日 トバ湖

日焼けが痛い。水ぶくれ。少しは歩けそうだったので6日ぶりにGuest Houseの外に出た。ハガキを買いにトゥットゥッへ。遠い。途中でGuest Houseのスタッフがバイクで向こうから来たので店まで乗せてもらった。GHに戻って10枚ハガキを書いた。まもなくトータル70枚。

2001年7月30日 トバ湖

Guest Houseのスタッフにお願いして、バイクに乗っけてもらってアンバリータのPost Officeへ。遠い。日焼けした足は焼けてるというより焦げてる。一部分はまだ赤く火傷してる。たった2時間ひなたにいただけなのに。

2001年7月31日 トバ湖

明日は8月かぁ。夏休み中のはずなのにちっとも日本人みかけない。スマトラ島はあまり日本人来ないみたいだけどね。

おととい、ブラジル人に「英語力があるのになぜしゃべらないんだ?」といわれ、英語でどうやってここまで来たのか、これからどこに行くのか話して、困った。ひたすら単語を並べるだけの私。文法は気にする必要はないとかいうくせに、「それじゃだめだ」とか。だいたいあんたとは今までしゃべったことないし、「英語力」なんてものがわかるほど他人とは会話したことないし、いろんなこと勝手に決めるし、腕に触ってくるし。私は、パキスタンの恐怖を思い出して、「Don't touch me!」と立ち上がって泣き出してしまった。彼は私が英語を喋るのが嫌で泣き出したと勘違いしたらしく、私が触って欲しくない事情を説明したら、旅が長い彼は、たくさんのレイプ事件を知っていて、たくさん話してくれた。けど、それはますます私を男性不信の底へ落としただけだった。英語を話さないといけないとか、どこの国の人間はダメだとか、いろいろ押し付けて私が反論しようとしてもちっとも聞いてくれない。もう疲れて「はいはい」ってうなずくだけになった。

3時間過ぎた頃、トイレに行くタイミングを測っていた私は、ほんのちょっとの単語の切れ目にトイレに立てた。彼はレストランに去って行ってくれて助かった。は〜疲れた。彼は毎日毎日誰かをつかまえて、何時間でも喋っている。最長は21時間ぶっ通し。日本人の彼女がいて、彼女はめちゃくちゃいい人で、私も大好きなんだけど、彼は。。。。10ヶ国語をあやつれる彼は、英語がかなりぺらぺらで、私にはゆっくり簡単な単語を使ってくれる。でも彼とは「会話」ができない。あまりにも一方的で反論を許さず、こっちの言うことを頭から否定し打ち消す。人形相手に喋ってれば?私は彼によってますます男というものが怖くなり、またその後全く英語を話さなくなりました。逆効果な奴め。

2001年8月1日〜3日 トバ湖

そろそろ動かなければ。次の目的地を決めかねている。

2001年8月4日 トバ湖

トバ湖のSony Cottageに来て2週間。宿泊メンバーはほとんど変っていません。今日は対岸のパラパッでマーケットをやるので行ってみました。規模は小さいけど、島の人々が1週間分の買出しをしているので、帰りの船の中は野菜や鶏の鳴き声でごったがえしていました。

パラパッではマンゴスチンとメダン行きツーリストバスのチケットを購入。あさってメダンに戻ります。ローカルバスだと12000ルピアぐらいでメダンに行けるけど、あえて37000ルピアのツーリストバスにしました。メダンは怖いし、250円くらいしか差ないし、安全を買ったと思えばね。

何故そのまま南下しないでメダンに戻るかというと、@南のブキティンギまでバスで17時間かかる。道が悪い。疲れる。Aブキティンギも涼しくて良い湖があるけれど60日間しかもらえない貴重なインドネシアビザの4分の1をすでに使ってしまったので、急がなくてはいけない。Bメダンからジャカルタまで2泊3日の豪華クルーズがしたい。南のパダンからだと1泊2日だから、どうせなら長い時間乗りたい。

2001年8月5日 トバ湖

新大統領のメガワティさんは頑張ってくれているようですね。TVが無いので世の中の出来事がさっぱりわからないけれど、両替レートがすごく悪くなっているので、それはこの国が良くなっているということを意味するんじゃなかったっけ?暴動があるとレートが良くなるし、レートだけで見ると、暴動やデモが起きたほうが旅行者にとっていいんだけどね〜。2週間前には、$1=Rs.11000〜10500だったけど、今は$1=Rs.8800ぐらいまで暴騰しています。4年前は$1=Rs.2000くらいだったらしく、マネーチェンジャーのおっさんによると、1ヶ月後には1$=Rs.2000になるそうです。ほんとかな〜?本当だったらもうインドネシアは旅できないよ。

明日でトバ湖を去るのは本当にさみしい。明日は暑くて危ないメダンです。久しぶりにインターネットできるのが楽しみ。日本語は使えないみたいだけど。インターネットといえば、4年前旅していた人が、今回の旅でインターネットをフル活用していて、「4年前にはネット屋なんてなかったのに、すごく便利になった。多分5年後にはみんな携帯電話持って旅してるんじゃないかと思う」と言っていました。確かにありそうなことだと思いませんか?

16泊もしたのに、1ヶ所も観光に行ってない!温泉も楽しみにしてたのに、宿のバスタブで満足してしまったし、思いっきり沈没派ですね。トバ湖はドラッグがいっぱいあってインドネシアで一番安いみたいだけど、1回も手を出してないもんね〜。道歩いてると「ハッパ、ハッパ」ってうるさい。そんなもんいらねーからついて来んなー!そんなわけで16泊のほとんどを宿の中で過ごしていました。

2001年8月6日 メダンから

高い割にスピードが遅いネット屋。

メダンです。ここからバスで4時間程のトバ湖に16泊しちゃいまして、またメダンに戻ってきました。テレビもネットもないところなので世界がどうなっているのやらさっぱりわかりません。まだインドネシアは危険なのでしょうか?

ものすごい速さで両替レートが暴騰しています。ということはメガワティさんは善政をしいているのでは?安全に超したことはないけど、あんまり暴騰すると旅行できなくなってしまいます。デモが起こればレートも良くなるんだが、と言っている人がいたけどそれはそれで恐いじゃないか。

あさってのフェリーでジャカルタに行こうかと思っていたけれど、9月17日にビザが切れるので9月にバリ島に来る二人の友達に会えない。ここからフェリーで4時間でマレーシアにいけるので、もう一度インドネシアに入り直せばまた2ヶ月のビザがもらえるんだけど。うぅー、友達に会うために60ドル払ってマレーシアに戻ろうかな。でも8月17日のインドネシア独立記念日にはジャカルタにいたいし。どうしようどうしよう。

2001年8月7日 メダンから

さてさて、明日のペナン(マレーシア)行きのチケット買いました。12日のジャカルタ行きのチケットも買いました。そんなわけで一度マレーシアに出国して、メダンに戻ってきてすぐジャカルタに向かいます。これで安心してバリ島まで行ける。けどもし友達に会えなかったら結構ショックだけど。で、今のインドネシアの政治、経済、情勢はどうなっているのでしょう?

明日はペナンかぁ。ふふっ。楽しみ。高いカネ払って往復するんやから思いっきり楽しんでやるー!最近「倹約」とか「節約」とか全然してなくて、贅沢にたのしんでます。お金なくなったら帰ったらいいんやし、また働いて行きたい所行けばいいし。昨日はツインルームに一人で泊まって2万ルピア。けどとなりの部屋の白人が朝の4時まで大声で議論してて、眠れんかった。あー、眠い。

2001年8月9日 マレーシア:ペナンから

マレーシアのペナン島に戻って参りました。やっぱペナンは居心地がいいなぁ。インド人は親切だし。中国人は楽しいし。スマトラ島で知り合ったアメリカ人、オランダ人、アイルランド人、カナダ人に再会できたし。

7月20日にインドネシアのスマトラ島入りしてすぐトバ湖に向かい、16連泊してしまいました。16泊もしておきながら宿から外出したのはたったの3回だけ。観光地も一個所も行っていません。涼しくてのーんびりできるところです(のんびりしすぎ?)

このままだと60日のインドネシアビザでは行きたいところまで行けなくなってしまうので一旦出国いたしまして、またあさって、インドネシアのメダンに戻ります。毎度のことながら本当に計画性がなく、効率の悪い旅をしています。

メダンからはジャカルタまでペルニ船で2泊3日の船旅です。ゴージャスに行きたかったので2等Aという高いクラスを選択しました。ふふっ。楽しみ♪9月上旬がロンボク島、9月下旬にバリ島、10月上旬〜中旬頃バンコクかな?前回バンコクに知り合いが一人もいなくてかなりおもしろくなかったので10月頃バンコクに戻ってくる方、遊びに来る方、ぜひぜひ私と遊んでください!それではまたっ(^。^)

2001年8月10日 マレーシア:ペナンから

昨日はNHKの朝の7時のニュースをみて、夜NHKの7時のニュースを見ました。まるで日本にいるようだ。昼間お買い物に行ったら偶然日本食コーナーを発見!醤油、酢、みりん、酒、みそ、マヨネーズなど調味料、わさびやからし、ふりかけ、のり、クッキーなどお菓子類、うどん、そば、そうめん、そしてなによりも驚いたのが冷凍食品のお弁当のおかず!お弁当のおかずやでー!レンジでチンするだけのやつ。だいたい日本の1、5倍ぐらいの値段でした。高いけどポカリの粉を2袋買いました。日本人の奥さんとその子供がいろいろ買い求めていました。とてもおしゃれで、金持ちそう...。やっぱペナンは住めるで。

今日本は夏休みやん?日本人の旅行者ちっともみかけへん。昨日来た女の人が「このあたりって日本人旅行者いないねー」って言ってたし。その人は日本人と韓国人のハーフでカナダ育ちで親の仕事の関係で世界中を転々とし、16歳で家出し、フランスのパリに長年住み、グリーンカードを取得して世界を旅しているスーパー女の子なのだ。かっこいい女性です。その人いわく、「日本人ってあんなに英語ダメでよく旅できるなーって思うのに、すごくたくさんいい情報持ってるよね。不思議ー」だそうです。それはどこに行っても日本人がたくさんいるのでお互い情報交換しているせいではないかな?(たぶんね)

明日はまたインドネシアのメダンにもどります。メダンで1泊してフェリーでジャカルタに向かいます。14日のお昼ごろジャカルタに着く予定。在インドネシア日本国大使館のホームページをチェックしてみたところ、ジャカルタでは爆弾テロが起こっているようですね。「人のたくさん集まるショッピングモールや映画館などで警備が手薄なところは特に注意」一応「治安情勢は平穏に推移」と始めに書いてあるので大丈夫なんでしょう。

2001年8月11日 メダンに戻る

インドネシアのメダンに戻ってまいりました。なぜか税関でバックパックの中身を全部調べられてしまい、しまうのがめんどくさかったわ。なにも後ろめたいことがないからいいけど。

フリーバスに乗り込むとき、「come back again!」とバスのにーちゃんに言われました。覚えられてる。大モスクの近くでバス降りたときも「Mai!Mai!」ってベチャのにーちゃんに呼び止められたし、宿に着いたら「Apa kabar MAI?」と宿のにーちゃんやおばちゃんに声をかけられました。よく覚えてるなぁ。私なにも目立つことしてないぞぉ。

明日ジャカルタ行きのペルニ船に乗るわけですが、当初ミニバスで港に行こうと考えていたけれどタクシーで行く事にしました。「メダンはインドネシアで一番危ない」とガイドブックに書いてあるけれど全然身の危険を感じたことがないし、一度もイヤな目にあってないし、どこがあぶないのかなーって思ってましたが、どうやら私が無事だったのは偶然だったらしく...。周りに聞いてみるとみなさんかなり危ない目に会ってます。やっぱりメダンは恐い所です。

宿のにーちゃんに「ミニバスはあぶないらしいね」って言ってみたら「yes、sometimes」...。ローカルピープルでも危ないんかい!夜絶対歩いちゃいけないエリアとか近くにあるらしい。ミニバスで港まで6500ルピア、タクシーで40000ルピア。えらい違いだけど私はタクシーで行きますとも。安全を優先するわ!それでは明日から2泊、豪華な船旅を楽しんできま−す。

2001年8月12日 ペルニ船にて

昨日大モスクの裏を歩いていると、パキスタンのインド大使館で会った日本人と再会した。しかも泊まってる宿が一緒で、12日のペルニ船でジャカルタに行くというのも一緒で驚いた。お互いあのインド大使館のくそおやじのせいでインドに行けず、バンコクに飛んできたのであった。

ペルニ船の旅1日目。2等Aは6人部屋でロッカー付き、シーツもきれい。同部屋はみんなインドネシアの元気なおばちゃん達。船内を探検してみた。トイレはあまりきれいじゃない。なぜかインドネシア人はおしっこをする時、シャワー室でする。なぜ?3等はずらっとベッドが並んでいてプライバシー全く無し。通路や階段の踊り場にはエコノミークラスの人たちがシートを敷いて寝ている。ゲームコーナー、カラオケ、カフェテリア、売店あり。売店はスーパーの3倍近い値段がする。私は水もお菓子も買い込んであるので大丈夫さ。

夕食までガイドブックとにらめっこしながら今後の予定を練る。さて夕食。チキン、魚、キャベツの煮込み、ライス、フルーツ。フルーツを除けば、昨夜屋台で食べた3000ルピアの食事(約40円)と同じじゃん。がっくり。部屋にコンセントがあるので、自分でお湯を沸かして食後のコーヒー。初対面のはずのおばちゃん達は、おしゃべりに夢中。通路で若者もギャーギャー大騒ぎ。耳栓をして寝た。

2001年8月13日 船中2日目

人口の90%がムスリムの国。部屋の中ではだらだらぐちゃぐちゃのおばちゃん達も、トイレに行くというだけできれいに髪をまとめてスカーフで髪を全部隠して出て行く。お祈りの時間になると放送でアザーンが流れる。日の出前のアザーンぐらいは音量を落としてくれないだろうか。。。。何かの連絡で放送する時、はじめに「アッサラームアレコン」と言うのでびっくりした。パキスタンで使っていた挨拶だもの。パキスタンから中東は全部「アッサラームアレコン」なんだよね。インドネシアでも使うのかぁ。

ペルニ船はほとんど揺れません。滑るように進んでいます。神戸から天津までの燕京号は揺れまくってみんなジグザグに歩いたり、時にはバックしたりしていたのに。さっき計算してみるとこの船の定員は1886名でした。でかいです。

夕食後、おばちゃん達に誘われてカラオケに行きました。もちろん日本の歌なんて無いけれど、字幕が出るのでインドネシア語の発音がわかりました。同部屋のおばちゃんの1人が中国語で歌を唄ったので華僑ということが判明し、しばらく中国語でお話ししました。どうやら彼女はメダンのお金持ちのようです。2等のAに乗るぐらいだから金持ちとは思っていたけど、自分の家の中に日本人のための学校があり、とても大きいらしい。いいなぁ、金持ち。

2001年8月13日 ジャカルタ到着

朝食は、目玉焼きとご飯とコーヒー。2等でこの食事かぁ。。。船は定刻ぴったりにジャカルタに到着。同部屋のおばちゃん夫婦が良いタクシーを見つけてあげると言ってくれたのでついていく。しかし、評判の悪いタクシーしか港にはおらず、おばちゃん夫婦を車で迎えに来ていた3人と共に便乗させてもらった。

普通車に6人とものすごい量の荷物を詰め込んで重たそうに車は進み、大通りでブルーバードタクシーを捕まえた。ガイドブックに「ブルーバードタクシーは信用できる」と書いてあるけど、地元っ子もブルーバードタクシーしか使わない。他のは絶対だめ!と言われた。

結局夫婦の家に少しおじゃますることにした。住宅地にある家は、調度品が立派で大きい。「クーラーが無いから暑いよ」とおじさんは言っていた。しばらく休んだら車で安宿街まで送ってくれて一緒にホテルも探してくれた。お別れのときほっぺとほっぺを交互にくっつけるインドネシア流の挨拶をされた。見知らぬ異国人の私に非常に親切にしてくれて本当にありがたかった。こういう出会いがあるから旅って面白いと思う。

ネットカフェーから

はい!ジャカルタです。暑いな〜。そろそろ両替しなくちゃいけないのだが、レートが悪くなってる。前回入国したときは$1 = 10500ルピアだったけど、いま8200ルピアぐらいです。最悪。

2001年8月15日 ジャカルタ

今日はガンビル駅までジョグジャ行きの切符を買いに行きました。中国に比べたらめちゃくちゃ楽に切符が取れたのでうれしい!けど『地球の歩き方』には学割が効くと書いてあったのに国際学生証みせても学割してくれませんでした。がっくり。

17日に独立記念日の騒ぎをみて、18日早朝にジョグジャに向かいます。今日両替に行ったら$1=8150ルピアでした。20日間で2000ルピア近くも下がりましたね。どこまで落ちる気なんだよ、全く。思い切って$200両替しちゃいました。明日には10月のシンガポール行きのエアチケット買わなきゃいけないのでUSキャッシュ$85も払わなくては。どんどんお金がなくなるわ。

ところでパキスタンでは肝炎にかかった人にたくさん会ったけど、インドネシアではマラリアにかかった人にたくさん会います。いやだー!こわいー!今泊まってるゲストハウス『YUSRAN HOSTEL』では夜9時になると各部屋に殺虫剤をまきにきます。シングル15000ルピアで扇風機付き。首都にしては安い。しかし暑いなぁ。大気汚染がすごくてのどが痛いし鼻水がでる。

2001年8月16日 ジャカルタ銀座に行く

今日は「ジャカルタの銀座」と呼ばれているパサールバルに行ってきた。タクシーで行こうと思ったけど途中でっかいモスクと隣にカテドラルという教会があるのでそれを見てきた。モスクの横に教会なんて珍しいではないの。交通量がすごいので喉が痛くて痛くて。かなり道に迷ってやっと着いたら本当に「銀座」だった。店の名前も「GINZA」って書いてるしいろんな所に「GINZA」の看板が...

店は中国人とインド人がやってるところが多かった。蚊帳を作ろうと思って布地屋さんで布買ったけど高かったので2メートルしか買ってない。中途半端ー。帰りも絶対タクシーで帰ろうと思ってたのに探しているうちにめんどくさくなってきて結局歩いた。今日は15キロ近く歩いたぞー。足の裏にマメできた。シュノーケルセットも買っちゃった。都会はだめだー。いろいろ買い物してしまう。

明日はインドネシア独立記念日。市民たちは準備に大忙し。町中が赤と白(インドネシアの国旗色)に彩られている。

2001年8月18日 ジョグジャカルタに移動

5時半頃を宿を出発。ガード下は真っ暗で、暗闇に隠れているおやじが声かけてきたりしてかーなーり、恐かった。大通りにはベチャが走っているのでベチャでの移動も可能。駅に6時頃到着。電車は、モナス寄りのホームで3番か4番に来ます。ローカルの人もわかってないみたいで、電車が来たらみんな「ジョグジャ?ジョグジャ?」って聞いてた。

30分遅れで電車が来ました。ジャクサ寄りの方が1号車です。座席は割とふかふかだし、3人ぐらい掛けられそうな二人掛けの座席です。ファンは出発してから5時間後に1時間だけ動いていました。でも炎熱地獄だと思っていた電車は快適。涼しかったです。

電車には「勝手に物売り」、「勝手に靴磨き」、「勝手にギター弾き」、「勝手に演説」、「勝手に掃除屋」などなどいろんな奴がやってきます。物売りは異常にたくさんいて、食べ物には困りません。蒸しとうもろこしは一本500ルピアでした。

「勝手に物売り」とは全員の膝に勝手にチョコや水や鉛筆や時計などを置いていって、あとで回収しに来て、買う人はお金を渡すシステムです。「勝手にギター弾き」とは勝手に人の横でギターを弾いて歌い、カネを取ります。寝たふりが一番。「勝手に掃除屋」とは汚れてもいない足元を勝手に掃除をし、カネを取ります。無視が一番。「勝手に演説」とは何か冊子を配った後勝手に演説を始め、カネを取ります。みな払っているのでびっくり。

ジョグジャには1時間半遅れで到着。安宿街は駅のすぐ前ですが、ガンT、U通りはとっても狭い小道なので見逃しそう。このあたりはまるで迷路です。PRASTHA JAYA の2階の9号室。ツインを一人で使い15000ルピア。お茶は飲み放題、ロビーでTVを見られます。ガイドブックには8000ルピアと書いてあるけれど、かなり値上げしたそうです。次の目的地のバスの手配やなんかも全てやってくれて便利。宿はすごくたくさんあるのでもっと安い所があるはずです。ジャカルタに比べたらジョグジャは涼しいです。雰囲気もいい。

明日は日曜日でバスがフルなので、あさって月曜日の午後、ロンボク島に向かいます。デング熱が流行ってるそうで恐いなぁ。蚊が媒介するっていうのがいやね。虫除けスプレーは夜明け頃もう効き目なくなっていて、いつも明け方にたくさん刺されます。

2001年8月19日 ジョグジャカルタ

2001年8月20日 バス車内泊

13:30、予定通りバスが出発。日本人3人と20人あまりのインドネシア人を乗せて大型バスは走る。トイレ付き、エアコン付き、リクライニングシートにブランケット付き。TVも付いているはずだったが取り外されていた。道は日本並に舗装されていて快適。

2001年8月21日 バリ島デンパサール->ロンボク島

明け方前にバスごとフェリーに乗り込む。寝ていたらいつのまにかバリ島に入っていて、バリ島時間9:00にデンパサール到着。ジャワ島とは1時間の時差あり。バリ島の景色はジャワ島とはまた違っている。建物が違うし、人々の服装も全く違う。同じくスマトラ島とジャワ島も違っている。同じ国なのに島ごとに違う文化を持っているインドネシア。デンパサールからさらに2時間半でバリ島の東の港、パダンバイに到着。21時間のバスの旅。ジョグジャから軽い風邪をひいていてちょっとダルイ。パダンバイでフェリーに乗り換え5時間、ロンボク島の港、バンサルに到着。そこからさらにミニバスに乗り換え1時間半、やっと目的地のスンギギにたどり着いた。待ち時間も含めて28時間の移動。

もう声がほとんど出ないし、鼻水もでてくるし、ホテル探すの面倒だよー!と思っていたら、行こうと思っていたホテルの客引きが現れた。ラッキー♪水シャワー、トイレ付きのツインで2万ルピア。交渉しても下がらなかったけど多分この辺では安いほうだと思ったのでチェックイン。スタッフは親切だし建物もきれい。Astiti Hotel 、ツイン20000〜、シングルなし、朝食付き。インドネシアを旅して困るのは、1ルーム単位で値段が決まっているので1人でも2人分払わなきゃいけないこと。仕方ないけど。夜は屋台で食べた。屋台は安いから好き。ジョグジャで2000ルピアだったMIEAYAM(日本で言えば鶏肉ラーメン)はスンギギでは3000ルピアでした。

2001年8月22日 ロンボク島:スンギギ

両替をした。思ったより宿代が値上がっているし、バスやフェリーの運賃も上がっている。毎回毎回両替に失敗する私は、また失敗。両替後に遠くまで散歩に行ったらもっといいレートの所があった(泣)。今の所、額をごまかされたことはないけどね。

宿の朝食はバナナパンケーキ、パイナップルケーキ、トーストなどから選べる。メダンの宿の朝食は、小さなパン1個だったというのに。風邪をひいているので宿の人に頼んでお湯をもらいマンディ(水浴び)をした。インドネシアは暑い国なので一日数回マンディをする習慣がある。水溜めの水をひしゃくですくって体にかける。だいたいこの水溜めがあまりきれいじゃないので、まだマンディに慣れない。シャワーもいいけど、やっぱり日本のお風呂が一番好き。マンディ後、Apotik(薬局)に行って、風邪薬を購入。3日分で1000円ぐらい。高い!効くといいけど。日本から持ってきた薬はもうありません。

2001年8月25日 ロンボク島からネット

ロンボク島です。おそろしくネット代が高い。ジョグジャを出発してバス車内で一泊し、順調にロンボク島に到着しました。軽い風邪をひいてしまったのでずっとスンギギというところで休んでいます。ひょんなことからロンボク島在住の日本人たちと仲良くなり、毎日食事、ビール、タクシー代などおごってもらってしまっています。そろそろギリ3島へ渡りたいと思っています。9/10前後に私への壮行会ということでパーティーを開いてくれるそうなのでそのあたりにまたスンギギに戻ってきます。

2001年8月27日 ギリ・トゥラワンガンに移動

プラマ社のボートでスンギギ-->ギリ・トゥラワンガンに移動。約1時間半だった。ガイドブックにS:15,000と書いてあった宿は70,000に値上げしていて超びっくり。仕方なく歩き回って探したけど全部高い!50,000の宿のスタッフが前働いていたという宿に行くと、35,000といわれたのでPleaseといって30,000にまで下げてもらった。部屋は汚い。シャワーとトイレ、朝食、蚊帳つきなので寝られればいいと思ってそこに決めた。案内をしてくれた人がコーヒーを飲みにおいで、と言ってくれたので、飲みに行ったら昼食まで出してくれた。

そのあとシュノーケリングをしに、シュノーケリングポイントに行って潜ってみたけど、思ったほどキレイじゃなくて、がっかり。変った模様の魚が少し見られた。底が見えないほど深い所は、はじめ怖くて行けなかったけど、少しだけ行ってみると小魚の大群が!この大群に襲われるんじゃないかと思うぐらいたくさんいた。まるでスイミーだ。あまり泳いでいると日焼けしすぎてまた泣くことになるので30分くらいで帰った。

2001年8月28日 ギリ・トゥラワンガン

夜中の2時に戸をノックされた。昼間知り合ったインドネシア人の2人の内の1人の声で、「友達が帰ってこないから部屋の鍵がなくて困っている。その中にぼくの友達がいるはずだから開けてほしい」。はぁ?である。「そんなことは知らない」と返事したら「1分だけお話ししたいから開けて」。なんだか悲痛な声。私は超むかついた。たぶん彼はこの手で何人もの女と寝たにちがいない。夜中の2時という非常識な時間に来たのにむかつき、わけのわからない理由で開けさせようとしたことにむかつき、そういう女と一緒にされたことにむかつき、彼の芝居にむかつき、キレそう。だいたい2人の部屋は別々で、あんたら鍵も自分達で別々に持ってたやんけ!ムカムカムカ。

「知らない、帰れ!」を連呼しているとやっと帰ったようだった。あ〜疲れる。女1人旅はこういう時、イヤ。インドネシア人にとって日本の女は一種の高級ブランド。パキスタンでもそうだったけど。「日本人の女」というだけで言い寄られたことが何度あったか。そういう下心なしでお話しできる人はいないのだろうか。その点、おばさんとお喋りするのは気が楽でいい。

同じ宿に泊まっている日本人カップルと知り合った。2年以上も旅しているそうで、何時間もおしゃべりし、一緒に昼食に行き、ビーチにも行った。私はまだ一度もこのあたりのレストランに入ったことがなく、屋台や地元人しか居ない安食堂で食べていた。彼らも同じだったので安心した。こんな汚いバンガローに泊まっているぐらいだから、西洋人だらけのレストランなんて行かないとは思ったけど。

旅の話しをしていると、なんと全く同じ時期にパキスタンのフンザに居たことわかった。彼らはハイダーイン、私は隣のオールドフンザインに泊まっていて、私はよくハイダーインに遊びに行っていたし、彼らも夕食を食べにオールドのほうに来ていたらしい。私と同じドミだった2人のことも知っていたし、富田くんのことも、あきこさんのことも知ってるし、その他共通の知り合いがたくさんいた。あの時、出会わなかったことが不思議なぐらい。本当に全く同じ日にすぐ近くに居たのだった。

ビーチで寝転んでいると、日本人に声をかけられた。彼とは2度目の再会。パキスタンのインド大使館で会い、スマトラ島メダンのモスクの裏道で会い、こんな小さな島のビーチで会った。これからフローレス島に行き、スラウェシ島に行くという。60日間という短いビザで行ける所まで行く、と言っていた。元気だなあ。

夕方カップルと私とでレストランのHappy Hourのビールを飲みに行った。3人でBaliHaiを4本空けた。すきっ腹だったせいかひどく酔っ払ってしまった。帰りに見つけたローカルの安食堂でミークアを食べて帰り、海水シャワーを浴びて寝た。ギリ3島は真水が出ない。歯磨きしてもしょっぱい。

2001年8月29日 ギリ・トゥラワンガン

昨日、インドネシア人の恋人を持つセイコさんという保母さんに、夜中の2時に来た男のことを話し、ものすごく迷惑しているから2度と来ないでほしいという事を伝えて欲しい、と頼んだところちゃんと伝わったらしく、その男の友達がやってきて、「彼とはもう友達じゃない。そういうことがあったと聞いて驚いた」とか何とか長いことしゃべっていた。英語がぺらぺらの彼は、独り言のようにぶつぶつ喋る癖があり、しかもだんだんインドネシア語が混じり、最後にはインドネシア語でぶつぶつ話すので、私は途中からさっぱりわからなくなるのだった。要するにあの男は以前このバンガローで働いていたが同じようなことがあって、ここをクビになり別の宿で働くことになった。今回で2度目なので、この島を出てもらいロンボク島に帰す。最低の男だ。もう友達を止めた。という内容だった。クビにしなくても。。。と思った。これで2人目をクビにしてしまった。本当に実行するかどうかは知らないけど、私は明日この島を出るし、ロンボク島にも戻る予定があるから、この島に居てくれたほうが私は安心なんだけど。こんど声をかける時にはもっとケツの軽い女を選びな!

午後はまたカップルとビーチへ。今日も波が高く波に遊ばれているうちに岩で足を擦りむいてしまった。昨日よりも北のほうでシュノーケリングしてみたら、サンゴに色がついていて、魚もたくさんいた。ただ人が少ないし、波が高いし、急に深くなって底が見えなくなるし、水温も冷たくなるので怖くなってやめた。マスクをとって泳ごうと思ってやってみたけど、足が届かなくなると怖いし、立ち泳ぎもできなくてアップアップしてしまった。水面で寝転ぶこともできなくなっていた。海は怖い。

明日隣の島のギリ・メノに行こうと思っていたけど、どうやら船代が高くて、宿も高いらしいので、このギリ・トゥラワンガンからギリ・メノ、ギリ・アイルへのシュノーケリングツアーに参加することにした。ミニマム3人のグラスボートは明日一人も予約が入っていないので、明日は参加できない。カップルもどうやらシュノーケリングツアーに参加するようだったので一緒に行くことにした。ただ今は波が荒くて水が濁っているので、もう一日待ってみましょう、ということになった。夜は昨夜と同じ店でミークワを食べた。この店の料理はいつも下る。でも食べちゃう。

2001年8月30日 ギリ・トゥラワンガン

夜明け前のアザーンと共に目覚める。ここのアザーンは今までのアザーンの中でとびきりうるさく長い。一通りアザーンが終わると歌が始まり、それが長い!この島のほとんどの人がムスリムなので犬が一匹もいない。猫はすごくたくさんいて、メスはほぼ100%妊娠している。まもなく子猫だらけになるでしょう。ロンボク島はヒンドゥ教も多い。でも牛は食べるらしい。ムスリムのこの島のビーチにトップレスの白人お姉さま方がたくさん居る、というのはとても変。ムスリムたちの感情としてどうなんでしょう?

午後はいつものようにビーチへ。強風で目も開けられない。日陰で寝転んでいたけどすぐ砂まみれになり、日焼けもして背中が痛い。波がとても荒いので今日のシュノーケリングは中止した。

2001年8月31日 ギリ・トゥラワンガン

朝7時に起きて1万ルピアの宿が空いたかどうか聞きにいったけど、今日もフルだった。この島で一番安いその宿はいつもフル。朝食後インターネットしてメールチェックした。1分500ルピア。ジョグジャでは1時間3000でできるのに、高すぎ!

午後はビーチへ。夕方カップルたちとビールを飲みに行った。日本人らしき人が1人でうろうろしていたので声をかけてみると、4人ともお互いパキスタンでの顔見知りだった。こんな小さな島で会う日本人すべてがパキスタンつながりなのでびっくりしてしまう。

2001年9月2日 ギリ・トゥラワンガン

いつものようにビーチに行ったあと、3人でピザを食べに行った。いつもの食事の6倍以上の値段だ。けれどすごくおいしかった。

2001年9月3日 ギリ・トゥラワンガン

今日はプラマ社のシュノーケリングツアーに参加。ミニマム3人のボートは私たち3人だけの貸切になった。ラッキー。3箇所でシュノーケリングし、亀も見ることができた。海の中は別世界だった。休憩のために立ち寄った島、ギリ・アイルで少し散歩したら、食事が安いし、宿もきれいで安いので、明日ギリ・アイルに船で移動することにした。夜は魚を食べた。スナッパーとバラクーダ(かます)を3人で。日本から持ってきている醤油をかけて食べると、バラクーダはサンマの味に似ていてとてもおいしかった。ビール4本あけて、魚でおなかいっぱい。日本でもこんなに大量の魚を食べることはめったになかったのに。いつもの夕食の7倍の料金でした。ピザも魚も食べられたし、シュノーケリングツアーにも行ったし、明日は移動だ。

2001年9月4日 ギリ・アイルへ移動

宿の清算のとき、9月分は安くしてくれ、と何分か交渉したらOKしてくれた。8月は3万x5日=150,000。9月分は2.5万x3日=75,000。合計225,000ルピア。が、電卓で計算していた宿のスタッフは何を間違えたか22万ルピア請求してきたのでそのまま払った。いえーい。15:00ごろまでビーチで遊んで、15:30のボートでギリ・アイルに渡った。宿は昨日探してあったのでそこへ行った。「RESOTA」というGuest House。一つ一つ独立したバンガローでハンモック付き。とってもきれい。今は、15,000ルピアだけど、もうすぐ改築するので100,000ルピアになってしまうそうです。夜は安食堂が見つからなかったので、7,500ルピアでチャプチャイ(八宝菜)を食べたらすごくおいしかった。

2001年9月5日 ギリ・アイル

ベッドが広くて虫もいないし快適だー!ギリ・トゥラワンでは虫に刺されまくったからなぁ。そして朝からビーチへ。シュノーケリングは最高。魚いっぱい、波もおだやか。水族館の中で泳いでいるような気分です。何万もの小魚の群れに囲まれてすごくGood Pointです。

2001年9月6日 ギリ・アイル

ずっとビーチに行ってました。

2001年9月7日 ギリ・アイル

疲れていたので、ハンモックで1日中読書。

2001年9月8日 ギリ・アイル

明日ロンボク島に移動することになったので、夜日本人4人でお別れディナー。魚2匹を4人で食べた。これまたおいしかった。ビールも飲んでほろ酔い。お腹もパンパン。1人約200円の豪華なディナーなのでした。

2001年9月9日 ロンボクへ移動

朝8時発のロンボク島バンサル港行きの船に乗った。20人定員の小さな船は、30人近く乗っていて、波が少し高かったので座っていたところがびしょぬれになり、それでも身動きできないので、バンサルに着いた時には、パンツまでびしょぬれになってしまった。しかも、まだ深い所で止ったので飛び降りたとき短パンのすそもぬれてしまった。

そのへんにいたチドモ(馬車)を値切りまくってベモ(乗合バス)乗り場まで乗せてもらった。4人で2000ルピアで乗せてもらったけれど、おじさんはよっぽど不満だったらしく、すれ違うチドモ仲間たちに「2000だよ」といちいち報告していた。ベモ乗り場に着いても、ベモのおっちゃんたちに「2000だよ」といいふらしていた。あちらのはじめの言い値は1人5000だったけど、それは高すぎるというものだよ。ベモもだいぶ交渉してアンペナンまで1人5000で成立した。

アンペナンまではジャングルのような所をぐねぐねと登って下りていく。猿山と呼ばれているだけあって、サルがたくさんいた。アンペナンでインターネットをして、2週間一緒に遊んだカップルとお別れして、ベモでスンギギへ。前回泊った宿にまたチェックインしたら、スタッフたちが私の日焼け具合に驚いていた。そんなに焼けたかな?

2001年9月10日 ロンボックから

やあーやあー。ギリ・トゥラワガンで8月27日から8泊しました。毎日ビーチでシュノーケリングです。9月4日にギリ・アイルに行って、5泊して、今ロンボックのマタラムでネットしてます。今日中にスンギギに戻って、スンギギで3泊してバリのクタに行きます。そこで友達に会う予定。日本食を持ってきてもらうので楽しみ!!!

スンギギ

2週間前にスンギギに来た時本を貸してもらっていた寛子さんから19:00頃電話があり、1時間後にレストランで会うことになった。他にも2人駆けつけて来てくれて私のリクエストでピザを注文。ここのピザはすごくおいしいのだ。生バンド演奏をやってて雰囲気もGOOD。ビールを何本か空け、アラックを2グラス飲んで酔っぱらいの私。宿はすぐ近くなのにタクシーで送ってくれてお別れをした。また会いましょうねみなさん!とても楽しかったです。

2001年9月12日 スンギギ

ジャカルタからバタム島行きのチケットを買いにマタラムのペルニオフィスへベモ(乗合バス)で行った。このチケットは人気でなかなか取られないらしいので早めにキープしておきたかったのだ。散々歩いて汗をかきかきオフィスに着いたけど、なんとチケット販売はしていないらしい。「ジャカルタでしか売っていない」とか・・・。

おめーここからジャカルタまでバスで40時間はかかるで。オンライン化しろよー!まあしょうがない。ジョグジャの旅行会社にあたることにしよう。いざとなりゃ飛行機でシンガポールに行ってもいいし。

宿で知り合った韓国人とビールを飲みに行った。韓国料理の店に行ったんだが高いのでビールだけ。けどビール2割引で豆のおつまみ付きで、特別にキムチ食べ放題にしてくれた。うふふ。キムチ大好き。一緒に来た韓国人はキムチがあまり好きじゃないらしく、わたしばっかり食べてた。

2001年9月12日 スンギギ→バリ島クタ

全部で9泊したスンギギAstiti Guest Houseともお別れ。スタッフとの別れはつらかった。スタッフの一人は握手したあとキッチンにかけこんで出てこなかった。さよならみんな。また来るよ。

移動はプラマ社のバス利用。スンギギ→マタラム(乗り換え)→港→(フェリー4時間)→パダンバイ→ウブドゥ→クタ。11時間かかった。韓国人に教えてもらっていた宿を探し当てチェックイン。ポピーズUの近くで1バンガロー25,000ルピア。格安かも。

日本からツアーで来ている友達(きみちゃん)のホテルを探しに行った。もう20:30頃だったけどネオンが明るく人もいっぱい。きみちゃんの泊まっているホテルは超キレイで超でかい高級ホテルだった。内線しても居なかったのでメッセージを残して帰った。ホテルの人は私をインドネシア人だと思ったらしくインドネシア語で話し掛けられた。最近よくインドネシア人と間違えられる。腕も足も日焼けして浅黒いからなぁ。

2001年9月13日 日帰りでウブドゥとジンバラン

10:00にきみちゃんに会いにホテルへ。きみちゃんとお母さんに迎えられる。きみちゃんと会うのは何年ぶりだろう。もう7年の付き合いになる。2人がウブドゥに行きたいということなので行くことに。ホテルのタクシーカウンターで交渉してみるとすごく高いのでシャトルバスを探しに行こうとすると追いかけてきて、10万ルピアで8時間ワゴンチャーターできた。言い値は4時間30万ルピアだったと思うが・・・。

結果的にこのチャーターは大正解だった。寄りたいところには行ってくれるし、文句もいわず長時間まっててくれるし、何もいわなくても名所(?)には行ってくれるし、銀細工なんかを買わなくても何も言わないし、いろんな店寄ってくれるし、バティック買えとか絶対言わないし、おごれとかもないし、すごく良かった。昨日だまされ、ぼられ、散々な目にあっていたきみちゃん親子は「だまされるもんか!」と頑張っていたのでどんどん値段交渉がうまくなってきていた。

昼はナシゴレン、チャプチャイ、サテ、といったインドネシア料理をいただく。「MAI-MAI」というレストランでとってもおいしかった。ウブドゥのパサール(市場)も行ったが言い値がやたらと高い。しかもあんまり下がらない。あそこはあまりよくない気がする。

夜はクタの南のジンバランへシーフードを食べに行った。エビとスナッパー。大変においしかった。車のチャーター代も昼も夜もお金を出してもらってしまった。日本に送りたい荷物も持って帰ってもらったし。きみちゃん親子、本当にありがとうございます。なんだか私はあまりお役にたってないような気がするんですが。

2001年9月14日 バリ、クタから

今日もきみちゃん親子と一緒。クタ界隈を歩く。ほんの少しクタの中心地を離れるだけでみやげ物が安い!ウブドゥのパサールより安いで。2人とも日本へのおみやげが大変そう。おみやげのことさえなければもっと楽しめるのに!って私は今までのリッチな海外旅行経験で思うのです。今はそんなにリッチな旅行じゃないのでほとんどおみやげって買ったことがないけどね。

夕方、これから始まるかもしれない戦争の影響で閉鎖していた空港(グアム経由便)がどうやら開いたらしいのできみちゃん親子は予定通り空港に向かいました。(後日談:結局オーバーブッキングであと2日間クタにいたそうです)。本当にめちゃくちゃお世話になりました。私は何もしてあげられなかったのに。会えて良かった。感謝しています。

2001年9月15日 バリ、クタから

すっかり風邪をひいてしまい、ほとんど寝ていた。ちょっと奮発してマクドでマックチキンセットなぞを頼んだのでした。うぅ。高い・・・

2001年9月16日 バリ、クタから

同じ宿の日本人に文庫本をもらったので午前3時までそれ読んでました。風邪は良くならず。

2001年9月17日 バリ、クタから

世界中が非常事態につき、今晩、デンパサール発関空行きガルーダインドネシアGA882で緊急帰国します。落ちなければ明朝着くでしょう。飛行機はとても空いているようです。席は選び放題でした。空港までのバス手配も終了しています。1万円とルピアに両替したところだったのでまるまる残っています。海外旅行保険もあと半年以上残っています。まだまだ旅行するつもりだったのでマレーシアリンギットもタイバーツも余らせたままです。もったいない・・・。それでは日本で。

2001年9月18日 帰国しました

帰国してしまいました。さすがにバリ島離れる時と関空に着いたときは涙がでそうになったね。「あ〜、本当に旅が終わっちゃったんだなー」ってね。ガルーダインドネシアは乗り心地良かったです。ワインも飲んだし。朝ごはんにそうめんが出たのがうれしかったなぁ。ちゃんとネギ、しょうが付き。日本に着いてはじめに驚いたことは、空港の出口を出ても一人も客引きがいないってこと!無理やり腕を引っ張られることもなく、快適に出られたのでした。日本ではいなくて当たり前だけど半年で身に付いた警戒心はすぐには抜けないのです。とりあえず、これから仕事探してお金貯めて、「報復」が終わったら(いつになることやら...)また旅立ちます。今までいろいろご心配おかけしてしまいました。ありがとうございました。