たびときどきにっき(パキスタン編
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旅の準備編

たびときどきにっき(中国編 2001・3・23〜5・2)
たびときどきにっき(タイ編 2001・7・6〜2001・7・11)
たびときどきにっき(マレーシア編 2001・7・11〜2001・7・20
たびときどきにっき(インドネシア編 2001・7・20〜2001・9・18)

パキスタン北部地方の地図

Chitral地方の地図

2001年5月2日 タシュクルガン(Taskurgan:3200m)
10時から中国側のカスタム・イミグレ(Immigration and Customs Check)が開くというので、交通賓館から500m程離れた所まで歩く。開くのを待つ間に元からルピーに闇チェン。レートは1元=6.66Pr。ルピーから元は1元=8Pr。公安のいるすぐ横で闇チェンしているので黙認されているようだ。ガイドブックなどに載っている中国銀行はつぶれているので両替は闇チェンのみ。ちなみにパキスタン側のススト(Sost)には両替できるところは無かった。

カスタムが開くとイタリアのツアーグループから先にチェック。荷物の検査と申請などで時間ががかっている。グループの後は西洋人4人と日本人7人。どうやら同じバスで国境を越えるのはこの11人のみのようだ。日本人は検査も申請も素通りOK。出国スタンプをパスポートに押してもらい終了。ビザの期限が切れていて時間をくったが、全員無事出国手続き完了。外でバスが来るのを待つ。

しばらくするとバスが来たが、ドライバーが来ない。結局イミグレを通過したのが14時。4時間も待った。バスで待っている間、公安が4回程パスポートチェックに来た。何のためにチェックしているのか?11人しかいないのに。ゲートを通過する時、直立不動の公安に手を振ってみたら振り返してくれたのでびっくり。しかし中国にはうんざりだ。もう二度と中国を旅したいとは思わない。

さて、カラコルムハイウェイ(KKH)のドライブが始まった。とはいえ、バスは大型だがオンボロ。何年も掃除などしたことがないようなゴミだらけの床。急ブレーキがかかるとぶっとぶ座席。それにひどい揺れ。内臓の位置が入れ替わるんじゃないかと思ってしまった。道は一応舗装されているが、所々大きな穴がある。崖崩れの石や岩もよけつつ走るので、横揺れ縦揺れバイブレーション何でもあり。天気が悪く雪が降り続いていた。

途中トイレ休憩のため何度かバスを止めてもらったが、標高が高いため少し歩くとすぐ息切れがする。みんな戻ってくるとゼーゼー言っていた。4733mのクンジュラブ峠(Khunjerab Pass)に向けてひたすらガタガタ走る。この峠が中国とパキスタンとの国境だ。中国とパキスタンの旗があるゲートが見えてきた。これが国境か?はじめての陸路国境越え!しかし、バスを降りることもなくパスポートをチェックすることもなくゲートは開き、バスは通りすぎた。国境じゃなかったのか。。。。

雨がひどく崖崩れがおきているので、崖の上を見ながらの運転。石が落ちてこない隙を狙って走り抜けるのだ。なかなかスリリング。右側に座ると崖側なのでちょっと恐怖を味わえる。「あ〜来る、来る、来る!こわいー!!」って感じ。左側に座ると川底に転落しそうな恐怖を味わえる。川底に落ちたらみんな一緒にドボンだけど、右側の石はマジで怖いので、左側に座ったほうがましかもしれない。

途中フンジュラブ国立公園入域料を払うために、一旦全員バスを降りる。4ドルか248ルピーか元での支払いもできる。そこから約1時間、終点ススト(Sost)に到着。パキスタン側のイミグレ・カスタムだ。約6時間のバス国境越えだった。いったいいつ国境を越えたのか。。。。しくしく。

パキスタン側のポリスたちは非常におおらかで楽しく、ユーモアあり、笑顔あり、中国側とは大違いだ。南行きバスはもう終了していて翌朝5:00にしかないということなので、西洋人4人+富田くんは車を1台チャーターしてパスー(Passu)へ向かった。私たち6人も1台チャーターして、カップル2人はグルミット(Gulmit)、4人はフンザ(Hunza)へ向かう。スストからも大雨である。

パスーを過ぎ、パスー氷河の見える所でドライバーが車を止めてくれた。大雨なのでゆっくり見ることができなかったが、その親切が嬉しかった。グルミットが近くなってきたころ、ドライバーが、「大雨だから落石がひどく、フンザには行けない。明日にしろ」と言い出した。しかし、明日移動するのも面倒なので私たちはフンザに行け行けと主張するが、彼はどうしても行きたくないらしい。確かに雨は激しいし時間も遅くなってきたので、グルミットで1泊して翌朝9時にホテルに迎えに来てもらうことにして、グルミットのVillage Guest Houseに行った。旅行人ノートによるとW300Prらしい。しかし値引き交渉をしてW150Prにしてもらった。

部屋はとてもきれいで、部屋にトイレ、ホットシャワー付き。まだ物価の感覚がわからないので、ルピーを元に換算してみる。W1人75Prなので、1元=8Prとすると約10元。安い。同じGH(ゲストハウス)には別の日本人2人が泊まっていて、日本人8人で夕食をとることになった。ツーリストはどうやらこの8人しか泊まっていないようだ。パキスタンでの食事は基本的に宿で取ることになる。私たちのリクエストで野菜スープ、チャパティ、ダルの夕食になった。グリーンティとミルクティのチャイもおいしかった。パキスタン北部では、肉は貴重なので、基本的に野菜中心になる。南部は肉ばっかりだそうだ。

このVillage Guest Houseの人たちは、とても陽気で楽しい人たちばかりだ。この夕食時の雰囲気が気に入り、私はもう1泊することに決めた。

2001年5月3日 グルミット
朝5:30に目が覚めた。北京時間だと8:30なので一種の時差ボケ?天気がよさそうなので散歩しようと思い外に出たら、ぶんちゃんも散歩していた。ぶんちゃんはチベットに行くはずだったのに、5月1日のメーデーにひっかかり、ビザの延長ができず、パキスタンに抜けてきてしまったのだ。5月1日から5月7日まで公安局の一部や商店などは閉まってしまうので、この期間中国を旅する人は気をつけよう。

こんな早朝なのにみんな起きて散歩しはじめた。やっぱり時差ぼけ?昨日は雨だったし夜だったのでわからなかったが、ここの景色は最高にキレイ!美しい!まるで絵葉書を見ているようだ。文章で書いてしまうとなんだか平べったくなってしまうので書かない。ぜひ来て、見て!

朝食は焼きたてのパンと目玉焼き。パンには杏のジャムをつけて食べる。昨日の夕食と朝食代を見せてもらったら152.5Pr。宿代の2泊分以上だ。しっかり「杏のジャム代」も取られていた。旅行人ノートには、「夕食155Pr」と書いてあったので、まあ妥当かな。

カシュガルから一緒だったあきこさんと元彼くんは、朝フンザへ移動していった。あきこさんと元彼くんは、また付き合うことになったのかどうかは不明だが、とても仲が良い。日本人カップルとぶんちゃんはT/Cを両替しに一緒にフンザに行った。私は1人で村を散歩。本当にのどかな村だ。

出会う人、出会う人に挨拶をされる。こちらもにっこり、習いたてのウルドゥ語で挨拶をする。どこへ行くの?どこに泊っているの?どこから来たの?ここにはどのくらい居るの?会うごとに何か話し掛けられる。とてもフレンドリーな人々。あたたかい。チャイを飲まない?と家に誘われたけれど、お腹を下しぎみなのでお断りした。

午後、GHの庭に椅子を持ち出し、川のせせらぎと風の音を聞きながら太陽の光を浴びて日記をつけていると、食事を取ろうとしていたGHのボスに一緒に食べないか?と誘われ、緑いっぱいの庭でチャパティとダルをいただいた。

パキスタンの人々はなぜこんなにも英語がぺらぺらなのか聞いてみた。小さな子供も英語をしゃべれる。イギリスの植民地だったころの教育だそうだ。テクノロジーや産業の発展のためにも英語は必要なので、子供のころから学校で教えるらしい。「たくさんの日本人を見てきたが、日本人は本当に英語が話せないなあ」と言っていた。「日本はテクノロジーも何もかも日本語で大丈夫なので英語は必要ない。だからちっとも話せないのだ」と、かって旅行者がボスに説明したらしい。

ボスは他にもホテルを持っていること、家族はギルギットにいること、パキスタンの気候の話し、いろいろ話してもらった。そう、話してもらったのだ。ヒアリングはわかるけど、私、ちっとも話せない!かなしーー!!それでもボスは、「あなたは英語がうまい方だ」といっていた。ほんまかいな。

夕方、KKH(カラコルムハイウェー)沿いの店に入ったら日本人の団体客に会った。近ツーのツアーで、これから一般家庭を訪問して、カリマバード(Karimabad)に宿泊するらしい。日本は今GWなのね。その店のおやじと仲良くなり、KKHの脇でチャイをいただいた。KKHを通るパキスタン人をみんなで呼び止め、紹介された。とても小さな村なので有名人になってしまったかもしれない。おやじは3つ店を持っていて、その内の1つに入り、民族衣装やパシュミナ、スカーフ、いろいろ試着させてもらった。まるで着せ替え人形のようだった。このグルミットの人々はみんな本当に気さくで、握手を求められたり、話しをしたがったりして、挨拶なしですれ違った事がないくらいだ。

2001年5月4日 グルミット
朝食はブレッド、ゆで卵、アプリコットジャム、チャイで53Pr。特にすることもないのでひたすら景色を眺める。ランチを食べにマルコポーロインへ。日本人のツアー団体が食事中だった。メニューを見せてもらうと高い!一品50〜400Prが平均だった。日本円にすれば、200円くらいだけどね。そこで食べるのはやめて、ツアー客とおしゃべりをした。GW休暇を利用して旅行中で、あさって成田だとか。日本はそんなに近いのかぁ。「記念に」ということでビデオ撮影をされてしまった。一人旅してる人がめずらしいみたい。結局ランチはGHでベジタブルスープとプラタとチャイで35Pr。夜はベジタブルカライ、トマトスープ、チャパティ、チャイで86Pr。

2001年5月5日 グルミット
スストで別れた富田くんが同じGHに来た。「Villege Guest Houseに日本人が溜まっている」という情報を得て来たらしい。いや溜まっているわけではないんだけど。。。今の所このGHの客は日本人7人、韓国人1人。他のHotelにあと2人日本人がいるらしい。グルミットにいる外人はこれで全部だと思う。なにせとても小さな村なので情報筒抜け。

みんなはトレッキングや魚釣りに出かけて行って、私は相変わらずGHの庭でのんびり。ちょっと頭がふらふらする。血の気が足りないのかな?念のため持ってきたマルチビタミンと鉄分を飲む。肉を全然食べていないのも原因じゃないかと言われた。肉は貴重だから高いんだよなあ。今日は奮発してビーフかな?お昼に庭でのんびりしていたら、またボスに誘われ、一緒にダルとチャパティをいただいた。ビスケット、チーズ、缶入りのチェリー、ウォッカ(!)もいただいた。パキスタンでお酒を飲んでもいいのかー!? ボスは「これは中国産だからいい」と言っていたが。。。

KKHを歩いていたらまたチャイに誘われ、店でチャイとビスケットをいただいた。人にすれ違うたびに話しかけられる。景色がきれいで人が暖かく排気ガスもないし、とっても静かでサイコー!良く行くお店のおやじに、日本語で店の商品の紹介文を書いて欲しいと頼まれ、店に張り出すポスターを作製することになった。「North Pakistan carpet palace」というお店に行けばそのポスターが見れる。文字だけだけどね。シタールがあったので「弾いてみて」と言ってみたら、周りの人々を集めて演奏会&踊りが始まった。踊りに入るよう誘われ、一緒に踊って、めちゃくちゃ楽しかった。本当に居心地のいい村だ!

2001年5月6日 グルミット
今日は日曜です。ボスの家族や友人が庭に集まって団らんしています。私たち旅行者もなんとなく全員だらだらしました。洗濯したり布団を干したり、ただ庭でぼーっとしたり。ランチはKKHの近くの店でダル、チャパティ、チャイで40Pr。約80円。食べきれない量だった。

パキスタンでは、ホモの話しをよく聞きますが、このレストラン(といっても8人でいっぱい)にもホモの人が居て、ぶんちゃんに熱い視線を送り、ベッドに誘っていました。始めは冗談かと思って笑っていたけど、彼らは本気なのではっきりNoと言わないと本当にヤラれちゃいますよ。男性諸君。

昨日頼まれたポスターを店に持っていくと、お礼にハンドメイドのフンザ産バッグをくれました。店に行くたびに私がそのバッグを身につけて鏡を見ていたので、それをくれたのかも知れません。372Prなので高くて買わなかったのです。すごくうれしい!

夕食後部屋でくつろいでいると、庭で友達と談笑しているボスに「麻衣はどこに居る?」と言われ、他の日本人達も誘って10人程でお月見をしました。中国産のお酒を飲みながら楽しいひとときでした。

あさって、ここから車で30分のところのパスー村で結婚式があるらしいです。Traditional styleの式で、花嫁はなんと日本人だそうです。行ってみたーい!こんな小さな村に800人も集まるんだとか。800人ってスゴイ。いったいどこからそんなに集まるんだろう。行ってみたいなぁ。

ボスたちが去ったあと、従業員たち(といっても2人)が余りもののライスとサラダを持ってきてくれました。そのあと庭で空手教室が始まり、もう夜中なのに空手の練習をみんなでしました。日本人6人中、私も含めて、4人が空手経験者で、2人は黒帯です。1人の女の子は柔道の黒帯です。すごい人たちだ。。。

ここの従業員2人はとってもおもしろい人たちで、毎日がとても楽しいです。5ケ月旅をしている人は「こんな楽しい宿ははじめて」と言っていました。

2001年5月7日 グルミット
今日お昼どきに葉書を出しにPost Officeに行く途中、出会ったおばあちゃんに家に寄って行くよう言われ、手を引っ張られ家に上がりました。ナマック(塩)チャイとチャパティをいただきました。ナマックチャイはやっぱり苦手。悪いと思いながらも残してしまった。おばあさんはあまり英語が話せないのでウルドゥ語だけでしたが、何となく仕草で言ってることを想像して話しました。多分「どこに泊まっているの?」「結婚しているの?」だと思います。なぜなら、この村の人々はこの2つを必ず聞いてくるからです。

いつも寄るお店でもチャイをまたいただきました。グルミットのすぐ近くのつり橋に行きました。板と板の幅が1m近かったり、板が薄かったり、強風だし、ぞくぞくしました。つり橋の場所がわからなくて適当に歩いていると、どこからかおじさんが現れて案内してくれました。案内してくれないとたぶんわからなかったな。手を握ってきたりしたけど、別にお金も要求されなかったし、いいでしょう。

2001年5月7日 グルミット(Gulmit)から

5月2日に無事国境を越えて、グルミットという村にいます。写真の川の向こう側の緑の広がっているところがそうです。田舎でしょー?

ホント何もない村で、とても静かで、景色もとってもきれいで最高です。まだ村から一歩も出ずに5泊しました。Village Guest House 75Pr(約150円)の宿です。離れられない!たぶんまだここにいることになります。村の人々もあたたかく居心地がとてもいいです。

ここから1時間で日本人の大沈没地フンザ(カリマバード)がありますが、とてもtouristyな村で、ガンジャやハシシをやってる人だらけだと、そこに行った人が言っていたので、まだしばらくはこの平和な何も無い村でのんびりします。宿代含め、1日約450円ぐらいで生活しています。日差しがきついので腕は黒く日焼けしてきました。






2001年5月8日 カリマバード
今日は両替をしにカリマバードに行きました。バスは朝6時の1本しかないので、ヒッチで行くことにして、8時30分頃KKHで車が来るのを待ちました。チャイを飲みながら待つことにして、KKH沿いのoutdoorチャイ屋で待っていると、いろんな人がどこに行くの?って話しかけてきました。

全然車が通らないまま1時間が過ぎた頃、一緒にチャイを飲んでいたおじさん(M.r.セイ)がJeepで連れて行ってあげようと言ってくれたので、いくらかと聞くと、あなたにまかせる、と言われたので30Prで行くことになりました。バスで行くと、グルミット->ガニシュ30Pr。ガニシュ->カリマバード5Pr(スズキ利用)なので、貸切でTOYOTAのJeepが30Prだったら格安だと思います。チャイの代金はいつのまにか別の人が払ってくれていました。途中同じくカリマバードに遊びに行く冨田くんを見つけたので、便乗させてカリマバードまで1時間、快適にドライブできました。このあたりは崖崩れが多くて、時々ドドーンと大きな音が山にこだまするので、どきどきしてしまいます。

カリマバードに着いてまず5月3日に別れたあきこさんカップルを探しました。Old Hunza InnかHaider Innにいるだろうと思って、そのあたりに行くと、ちょうどあきこさんが景色を眺めているところでした。ここカリマバード(フンザ)は、「風の谷のナウシカ」のモデルになっていると言われている所で景色はまさにあの風の谷です。Old Hunza Innに2人は泊まっていてW110Pr(1人55Pr)です。トイレは壊れていて手桶でバケツの水を流していました。その隣の部屋の日本人がはっぱを巻いていたので見学していると「女の子は巻けない方がいいよー」と言われました。

ガンジャはたくさん見たことがあったけど、チャラス(ハシシ)のでかい塊を始めて見ました。みんなで回し吸いし始めたので、煙たいので外に出てしまいました。頭いてー。狭い部屋でみんなで吸っていると煙がこもって副流煙でも飛べるんだとか。髪とか服に臭いがつくからやだ。

Haider Innにも日本人がたくさんいました。ちょっとにぎわっている所まで行くと商店やみやげ物屋が並んでいて、グルミットに比べるととても都会な感じがしました。hotelもいっぱいあるしね。両替は、$T/Cで1$=59Prです。$cashは1$=60Prです。グルミットでT/Cは両替不可です。なのでT/Cは両替をしにカリマバードまで出張が必要です。ちなみにグルミットの銀行の所長さん(と思う)は、彼女が日本人なので日本人にとても好意的です。カリマバードに着いて4時間程たった頃、黒い雲が迫ってきたので帰る事にして、待っていてくれたMr.セイのJeepで帰りました。途中大雨になり、落石が心配でドキドキでした。Mr.セイは往復60Prで文句1つ言わず笑顔でお別れしました。いい奴だ!

2001年5月9日 パスーの結婚式
今日はグルミットから車で30分程の所にあるパスー村で、日本人とパキスタン人の結婚式があるという噂を聞きつけたので4人で行くことにしました。KKHでヒッチすることにして、少し待っていると、5月2日にスストからグルミットまでチャーターしたおやじの車が通りかかったので乗ろうと思ったけれど、満席だったので4人で屋根に乗りました。15Pr。カーブでは振り落とされないように気をつけないといけないし、荷物たちと一緒で窮屈だったけど、真っ青な空と山と川と風で、すっごく気持ちよかった!

パスーに着いたものの、どこで式をやっているかわからず、適当に歩いていると太鼓やラッパの音が聞こえてきたので、そっちに行くと、人々が踊っていました。日本人女性とパキスタン男性。その友人の日本人の男女、2組の合同結婚式です。村中の人々が集まっているので、パスーのホテルの従業員もいないし、店もすべて閉まっていました。

日本人は25人くらいで、15人は日本から友人として来ている人たちでした。全員パキスタンの民族衣装を着ていて、みんなかって旅の途中で出会った友人だそうです。残りの10人程は私たちのようなやじうま日本人です。2時間ほどひたすら踊りが続いていたけれど、女性は踊らないので不思議に思ってその辺りの子供に聞いてみると、ここでは女は踊らないそうです。女は見ているだけなのだそうです。

同じく見学に来ていたMr.セイにチャイに誘われたので、彼のおいの妹(だから姪か)の家に行きました。Mr.セイは「20分だけ」と言ったのに、1時間もかかったので、ぶんちゃんたちを心配させてしまいました。

めいの家でチャパティ焼きを手伝わせてもらいました。チャパティを焼いて、手で細かく裂いて、ヨーグルトに浸して食べました。ヨーグルトはプレーンなので酸っぱかったです。チャイはナマック(塩)しかなかったです。パスーでは、チーニー(砂糖)は売っていないそうです。ホテルやゲストハウスにはありますよ。

式をやっている広場に戻ると踊りは終わっていて、男女に分れて食事が始まるところでした。行方不明状態だった私は、みんなに探されていました。ごめんなさい。。。。食事内容は。。。まずかった。チャパティとブレッドとバターとマトン。いやーまずかったわ。チベットのバター茶の味と同じらしい。もう、グルミットに戻ることにして、KKHを歩きながらヒッチをしました。しばらく歩いていると車が来たので止めるとMr.セイでした。すでに4人乗っていて、私たち4人全員は乗れないので、あちらのご指名で女2人だけただで便乗させてもらいました。同乗していた高級ホテルの責任者さんの誘いでホテルのレストランでチャイをいただきました。今日はタダランチ。タダ乗り。タダチャイでした。

2001年5月10日 みんなとお別れ
今日はカシュガルからずっと一緒に旅してきたみんなとお別れです。私はこのグルミットが気に入ったので残ることにしました。3人を見送ったあと涙が止まりませんでした。ボスとチャイの約束をしていたので、ゴジャールで一番高級ホテルのレストランに行ったけど、ボスと話している間もずっと泣き続けてしまいました。

午後は商店の人たちにウルドゥーの文字を教えてもらいまいた。1つ1つは覚えられても、文章や単語にすると文字同士がmixされて発音も変るので難しい!明日も教えてもらう約束をしてGHに戻りました。今まではぶんちゃんとシャワー、トイレ付きのWの部屋でシェアしていたけど、1人になったのでシャワー、トイレ外付きの部屋に移りました。パスーの結婚式の時に会った日本人のHさんがグルミットに移動してきていて、隣の部屋になりました。夜11時頃トイレに行こうと思って戸を開けたら、ちょうど従業員の1人が通りがかって(待ち伏せかな?)走って私の部屋に戸を押して入ってきました。ヤバイと思って外に出ようとしたら力で押し戻されてしまいました。「ちょっと、ちょっと」「問題ない」と日本語で言って無理にくっついてくるので、なんとか離れて外に出て、彼が出てくるのを待って、出てきたらすぐ中に入って鍵を閉めました。もうこのGuest Houseには居られないので、パッキングをして翌朝すぐ出られるよう準備しました。

2001年5月11日 さらばグルミット
朝、隣部屋の日本人Hさんに相談したところ、ボスに言ったほうがいいということになり、ボスの部屋に行って、あったことを説明しました。ボスは何度も何度も謝ってくれ、私を孫娘と同じだと思っていると言ってくれました。そして、私の部屋に入ってきた従業員を厳しく罰すること、警察に行くかどうかを検討すること、そして、彼を連れてきて謝まらせる、と言ってきました。彼とは顔を合わせたくなかったので、それは断りました。KKHでヒッチハイクして車をつかまえ、グルミットを去りました。ウルドゥー語を教えてもらっていた人々や親切にしてくれた村人たちに挨拶できずに去ったのが残念です。

ヒッチした車がギルギット行きだったので、私はカリマバードで途中下車し、Hさんはギルギットに行きました。車を降りてすぐ忘れ物をしたことに気づき、呼び止めましたが間に合わず、一緒に降りたパキスタン人たちも口笛などで止めようとしてくれましたがダメでした。忘れ物のカバンの中身は食料やガイドブック、スカーフなどで貴重品は無かったのでまだ良かったです。Old Hunza Innにチェックインしました。3人ドミで同部屋は日本人とシンガポール人の男性2人でした。50Prです。約100円。日本人になじみの宿は、Haider InnとOld Hunza Innですが、富田くんがHaider Innの方に泊まっているのを見つけました。カシュガルから一緒だったあきこさんカップルは、Old Hunza Innのダブルに1人55Prでまだ泊まっていました。

Old Hunza Innの名物オーナー「勝新」に荷物を忘れてしまったことを話し、ギルギットの日本人のたまり場宿に電話したいことを伝えると、すぐかけてくれました。ギルギットの宿、New Tourist Cottageのオーナー、ケイコさんと話すことができ、私の荷物がHさんの手によってNew Tourist Cottageに届いていることがわかりました。「勝新」に、You are lucky girl ! と言われた通り、本当にラッキーでした。

2001年5月11日 カリマバード(Karimabad)から
サラムアレコン。グルミットに9泊して、訳あってグルミットを脱出してきました。ウルドゥ語を教えてもらったりとてもお世話になった人たちに挨拶することもできずちょっと残念です。今はカリマバード(フンザ)にいます。ヒッチしたワゴンの中に忘れ物をしてしまい、その荷物がギルギットのNew tourist cottageに届いているという情報が得られたので、明日早朝ギルギットに取りに行きます。ギルギットで1泊してまたフンザに戻ってきます。フンザの日本人の溜まり場宿Old Hunza Innのオーナーは荷物探しを手伝ってくれて助かりました。ここは1泊50Pr。約100円ってとこかな。

2001年5月12日 Gilgitへ
早朝5時30分にチェックアウトして荷物を取りにGilgitに向かいました。手荷物は歯磨きセットと日焼け止めだけなのでほとんど手ぶらです。昨日民族衣装を買ったのでそれを着て行きました。8時前にGilgitに着き、New Tourist Gottageに8時30分頃たどり着きました。ここも3人ドミをあてがわれました。ほぼ満室で前日泊の人のチェックアウトをレストランで並んで待っている人が7人ほどいました。全員日本人です。

衣装に合うサンダルとショールが欲しくて、オーナーのケイコさんに相談すると、ちょうど出かけるところだったバダルと一緒に行っておいでと言われたので、ランクルで一緒に出かけました。バダルの奥さんは22歳の日本人です。若い! 会って2ヶ月ほどで結婚したんだとか。。。早い! 買い物の他にもバダルの会社や、バダルの友達のカズコさんの家にも行きました。カズコさんはパキスタン人のだんなさんとの間に3人の子供がいて、まだ小学生にも満たない子供たちが日本語とウルドゥー語をまぜこぜで話すのですごいです。

カズコさんの家で久しぶりにインターネットをやらせてもらいました。昨日おじいちゃんが亡くなったという訃報がありました。今年は身内がたくさん亡くなっています。ふたりのおばあちゃん、おじいちゃん、天国から私を守ってください!

バダルの親戚の家もカズコさんの家もリッチです。グルミットで何度か招かれて行った家はとても貧しい家で何百年も変っていないスタイルでした。

New Tourist Cottageに戻って日本語の本を読んだり情報ノートを読んだり、他の旅行者と話したりしました。とても居心地のいい宿です。私を旅へと誘ったKさんが2年前(かな?)情報ノートに何か書いたらしいので探したけど見つかりませんでした。残念。なんとオーナーのケイコさんはKさんの事を覚えていました。めだってるね、Kねーさん。

夕食は、コロッケ定食を頼みました。おいしい!量も十分です。けど高い!130Prでした。この日は多分20人近く泊まっていて全員日本人、女性は私1人でした。

2001年5月12日 ギルギットから
いま、パキスタンです。2001年5月2日 中国・パキスタンの国境、クンジェラブ峠を越えました。5月2日〜10日までは、グルミット。5月11日は、フンザ。今日、5月12日は、ギルギットにいます。明日5月13日は、またフンザに戻ります。

今日は野暮用でギルギットに来ました。パキスタン北部、最高です。めちゃくちゃいい場所です。人も最高。今はインターネット屋じゃなくて、人の家におじゃまして、その人のノートパソコンを使わせてもらっています。毎日誰かの家におじゃましてます。フンザ、グルミットにはインターネット環境はありません。とりあえず元気です。日本人だらけです。ここは最高!パキスタン万歳です。

2001年5月13日 Hunzaに戻る
朝8時30分頃にチェックアウトしてワゴンで3時間半、Hunzaに戻りました。Old Hunza Innのドミが空いていたのでまたチェックインしました。今度はイギリス人男性とフランス人女性と同部屋です。イギリス人男性の彼女は日本人で、彼女はもう7ヶ月もパキスタンを旅していてウルドゥー語ぺらぺらです。もちろんビザは切れていて不法滞在になります。すごくかっこいい女性であこがれてしまいます。疲れていたのでだらだら過ごしました。Gilgitは暑かった。

2001年5月14日 だるい
体がすごくだるくてトイレの往復もふらふらです。肩で息している状態で、さらにひどい下痢です。腹痛はないので細菌性の下痢ではないようですが、あまりにもひどい下痢です。ほとんど歩けないし食欲も全然ありません。あきこさんは前回の旅のとき、パキスタンでA型肝炎になっていたのでとても心配してくれて、ビタミン剤や果物などを持ってきてくれました。同部屋の二人も何かと声をかけてくれるけど英語だから何言ってるのかわかんねー。1日中寝ていました。

2001年5月15日 相変わらすの下痢
気だるさはだいぶ取れました。少しは何とか歩けるまでに回復。食欲も少し出てきたので高価なチキンサンドイッチ(80Pr)を食べました。あとはひたすら寝る。 

2001年5月16日 少し回復
トイレに行く回数が減った。正露丸が効いたのか便も固めが出るようになった。だるさも回復。先日買った衣装にポケットを付ける為に布を買いに出かける。いいのを見つけて「キットナ(いくら)?」と聞くと、「パーンチ(5ルピー)」と言う。「え?」と念のためもう一度聞き返すと「25ルピー」と英語で言う。ムカツク。ムカツいたけど20ルピー渡して店を出る。言い返せばよかった。言い返さない自分に腹が立つ。ボタンを買いに別の店に入る。2つ選んで「キットナ?」と聞くと、もってけもってけと仕草で言う。ありがたい。むかつきがちょっとおさまった。今日は富田くんがチェックアウトしてGilgitへ行ってしまった。初めて会ったのが4月10日の敦煌。18歳の空手少年、よい旅を!また会うかもね、方向同じだし。

ガンジャ(大麻、マリファナ)のこと
ここHunzaではほとんどの人がガンジャかチャラスをやっています。近くにガンジャ畑があるし、宿の前にもガンジャが植えてあります。チャラスもすぐ手に入ります。吸うと酒のように酔っ払いみたいになるのかと思っていたけれど、みんな全然普通です。見た感じではたばこを吸っているのと変りません。誰かが一本巻いて、それを数人で吸っています。私はまったくやらないので輪に入れなくて困ります。ガンジャをやるために他人の部屋に遊びに行ったりして友達を増やしているようですが、私はそういうきっかけがなくて困ってしまいます。それでも私はたぶんガンジャもチャラスもやらないだろうと思います。

水のこと
パスーの水はたいへん濁っていてとてもじゃないけど飲めません。
グルミットの水はとても澄んでいて生水のまま飲んでもOKです。
フンザの水は濁っていて飲めません。泥水のようです。洗濯しても洗濯物が汚れてしまいそうです。でもそれしかないので、それでシャワーしたり顔を洗ったりします。チャイも濁っています。飲む気しません。
パキスタンの水はインドから来た人でさえ下します。インドから来た人はラワールピンディで寝込みます。ラワールピンディの有名なたまり宿Popular Innは宿泊費がチャラス代込みです。やりたい人はどうぞ。あと、情報が集まる場所でもあるので利用価値ありです。

2001年5月17日 ギルギット
昨日フンザからギルギットに移動しました。ギルギットの宿はまたNew Tourist Cottageです。80Pr。日本人いっぱいです。富田くんもいました。「風の谷のナウシカ」を全巻読めました。深い話しだ。ここには日本語の本がたくさんあります。今日は英語の参考書「ニューコース中2英語」で英語の勉強を少ししました。中2レベルがちょうどいい。。。。

暑くて日中外に出られません。夕方頃、先日ギルギットに来たときに知り合ったバダルに連れられてカズコさんのおうちに行き、夕食をご一緒することになりました。パキスタンでは子供を5〜7人産むのが普通で、特に男の子をたくさん産むことが必要とされています。

女は外出できないので買い物など外の用事はすべて男がします。例えば、女の人が靴が欲しいと言ったとき、男の人は靴屋に行き、靴を3〜5足持ち帰り、1つ選ばせて、また靴屋に戻り、不要な靴を返すそうです。車でバザールに行ったときでもスカーフで頭と口を覆い、目だけを出します。店内に別の男の人が居た場合、車からは降りられないので、主人に3〜4足靴を車の中に持ってきてもらって選ぶそうです。なのでここギルギットで女の人を見かけることはほとんどありません。たまに見かけても目だけ出しています。他の皮膚は一切見ることができません。だから痴漢が多いのでしょう。抑圧されすぎ。

カズコさんの家に6時間近くおじゃまして、宿に戻ったのは23時頃でした。3人の子供たちと遊び疲れてくたくたです。

2001年5月19日 ギルギット
今日は何しようかなー。葉書を数枚書いてGPO(中央郵便局)に行ったら土曜日なので閉まっていた。帰りに点滴代わりになる薬を次の病気に備えて購入。卵と野菜も買った。宿で食事すると高くつくので、ゆで卵と野菜のスライスをナンに挟んで食べる。ナン1枚3ルピーなので安くつきます。グルミットでみんなとお別れしたとき、電熱コイルをもらったので、お湯が沸かせる。チャイもゆで卵もすぐ出来上がり。New Tourist Cottageでは、チャイ1ポット10ルピー。ゆで卵1ケ10ルピー。卵屋では5個10ルピーで売っていた。

 2001年5月20日 ギルギット
今日も少しお買い物。パキスタンは女1人では外出しにくくてヤダ。なのでめったに1人で外出しません。ナンにチーズをぬってトマトとキュウリとゆで卵を挟む。んまい!ライムを買ってきて砂糖を溶かしたお湯に搾るとおいしい!ライムは1個2ルピー。8個買ったらキュウリ1本おまけしてくれた。安かったので、チャイポットも40ルピー、約80円で購入。チャイ3杯分くらいの小さくてかわいいポット。宿のみんなにも好評。

夜おもしろ半分でガンジャクッキーを約3cmx5cmぐらい食べた。2時間後きました。自分の発言と行動に責任が持てそうになかったので、ずっとベッドに横になって静かにしていました。いやあ恐ろしいね。もういらない。

2001年5月21日 ギルギット
Jeepをチャーターして、シャンドール峠(Shandur Pass:3,734m)を越えてチトラール(Chitral)へ行きたくてこのギルギットに留まっているわけですが、1台8,000〜9,000ルピーするので6人集まるのをひたすら待っています。グルミットで初めて会った「すっとこどっこい」さんが、1人1,000ルピーで峠を越える話しを持ってきてくれたので、それで行くことにしました。3人で1台チャーターして1人1,000ルピー。格安だー! 後にチトラールで、「1000ルピーで来た」と言うと、現地の人でさえびっくりしていました。明日出発。突然決まったので、バダルにもカズコさんにも挨拶できませんでした。

New Tourist Cottageで今までに食べたもの。親子丼、てんぷら、チキンの照り焼き、肉じゃが、お好み焼き、味噌汁、おかゆ、野菜ラーメン、ポトフなど。

2001年5月22日 ギルギット->シャンドール峠
朝6時に宿まで迎えにきてもらって出発。道はガタガタ。崖っぷちをひたすら走る。上下左右に揺られ続け、ときどきジャンプする。途中チェックポイントが4箇所ほどある。面倒だけど、どこでmissingしたかわかりやすいかも。景色は谷の村が上から見下ろせてGood。

Karim Hotelという所でランチ。とてもきれいな湖のそばで静か。山羊がメーメーないている。午後も揺られ続ける。胃の中がぐちゃぐちゃになりそう。。。。途中トイレのために止まってもらって、溝にしゃがみ込んで用を足して立ち上がったら、目の前に牛がいてびっくり。19時前にシャンドール峠に到着。約13時間。生死のかかったジェットコースターだった。

シャンドール峠は標高3,732m。寒い。宿はテント。暖房はもちろん無い。トイレも無い。電気もない。夕食はダルとチャパティ。ダルは何度食べても苦手だわ。あまりの寒さに持ってる服のほとんどを着込む。テントには他にアメリカ人とチェコ人の夫婦がいた。夜トイレに行きたくて懐中電灯を持って外に出たら、たくさんの目が光っていて超ー恐ろしかった。たぶん馬やロバ。テントに10人雑魚寝。ダルを吐きそうでずっと気持ち悪かった。寒いし、狭いし、ほとんど眠れず。

2001年5月23日 シャンドール峠->チトラール
腰の辺りが痒いので見てみたら、20箇所近く食われていた。昨日流れていた小川は凍っていた。北京で痛めた足が痛み、腰も痛いし寝不足でつらい。けれど今日はチトラールへ、さらに悪路を進む。道は悪いけど景色はとってもいい。いくつもの谷の村を進む。ブニの村までは舗装されていないので何度もジャンピングしながら走る。ブニからは快適にチトラールまで行けた。

チトラールではAl Falooq Hotelにチェックイン。3人で1 room 200ルピー。宿の人に、明日Kalash valleys(カラッシュバレー)に行きたいと相談すると、100ルピーで連れていってくれることになった。自分で乗り換えながら行くと、この半額ぐらいでいけます。チトラールにはアフガン難民が多く住んでいるので、アフガン料理を食べに行った。プラオ、サブジー、ナン、カワ茶など、とてもおいしかった。1人30ルピー、約60円。マンゴーをしぼって水と砂糖をミキサーにかけたジュース(10ルピー)はとてもおいしいのでお勧め。ギルギットにもある。

カラッシュバレーに行くには、ポリスで仮登録証明書を発行してもらわなければならないのでポリスへ。パキスタンの民族衣装を着て、ショールで頭と鼻、口を隠して、目だけを出して、ポリスへ行くと大受けした。beautiful beautifulの連発。途中ショールがずれて口元が見えてしまったら、みんな大騒ぎになった。なぜ見えないのにビューティフルでこんなにウケるんだ?チラリズム?

2001年5月24日 チトラール->カラッシュバレー
ジープでカラッシュバレーへ。カラッシュ族の住むこの谷は、3つの谷があって、ブンブレット(Bumburet)の谷に行くことにした。谷の入口のチェックポイントで証明書を見せ、100ルピーを払ってジープしか入れないけわしい道を進むこと1時間程でブンブレット谷に到着。アニーシュというカラッシュ族の村のShalimar Hotelにチェックイン。

カラッシュバレーはムスリムの村とカフィールの村がはっきり分かれている。ジープの運転手にカラッシュ族の家に連れていってもらった。女性の服装がとても特徴的でとてもカラフルできれいな衣装で髪型と帽子もとてもきれい。家の構造も石と木を組んだもの。その民族衣装のまま畑仕事もしている。TVや本だけの世界じゃなく、本当にこういう格好で生活していることに驚いた。

Hotelに戻り、ワインを飲んだ。地元の人は、ワインに水たくさんとコーラ、砂糖を入れて飲むようだけど、まずかったのでストレートで飲んだ。酔った。

散歩していると、カラッシュ族の子供に手招きされたのでついて行った。家に招待されて、衣装を着せてくれたり、くるみやマルベリーをくれたりした。はじめは2人の子供だったのにどんどん増えて8人ぐらいの女の子ばかり集まった。Hotelまで送ってくれた。カラッシュの子供をたくさん引き連れた日本人の女は奇妙に見えたに違いない。子供たちと別れたあと、しばらくして先ほどの2人の子供がHotelにやってきて、「10ルピー」と言ってきた。がっくり。やっぱり金目当てか。

2001年5月25日 カラッシュバレーブンブレット谷
ホテルを移った。Shalimar Hotelは水も電気もダメなので、昨日散歩中に声をかけてきた宿に移ることにした。Peace Hotelはお湯のタンクがあるのでホットシャワーOKだし、水も出る。電気もわずかにつく。それでShalimarより安い。1泊40ルピー、約80円、と言われたので、夕食と朝食とチャイ飲み放題と1泊セット100ルピーで交渉するとOKだった。昼食は隣のナン屋でナン1枚(2ルピー)買って、持っていたジャムをつけて、チャイと一緒に食べた。たった約4円の昼食。Goodねー。このPeace Hotelのオーナーは、大の親日家で、この先も日本人のバックパッカーだけチャイをfreeにすると、約束してくれた。

2001年5月26日 カラッシュバレーブンブレット谷
ギルギットから4日間、一緒にここまで来た2人の日本人とお別れし、2人はチトラールへ戻り、私は残ることにした。ShalmarもPeaceもオフシーズンなので他に客はいなくて私はたった一人のお客様になった。お昼は隣のナン屋のナンを1枚、ギルギットで買ったチーズを塗って食べていたら、オーナーがここの牛から作ったヨーグルトを持ってきてくれた。No charge。約4円の昼ご飯。午後は川辺で友人たちにポストカードを書いた。

夜、オーナーが結婚の話しや子供について、コンドームや避妊について聞いてくるのでイヤだった。パキスタンの男は何かというとすぐ結婚、結婚と言ってくる。ウザイ。

2001年5月27日 カラッシュバレー ->チトラール
カラッシュバレーブンブレット谷バトリック村のPeace Hotelをチェックアウトした。オーナーにジープを止めてもらって、貸切でアユーン村まで1時間、20ルピー。ドライバーが崖っぷちのガタガタ道を走りながらちらちら私の顔を見るので、怖くて気が気じゃなかった。アユーンからの道は、舗装されているのでワゴンに乗った。

パキスタンでは女性は前の席と決まっている。私の横の人は頭から全身を黒い布で覆っているので、目さえ見えなかった。中国のウイグル自治区からそういう人が多い。頭から布をかぶっていて、布のすけ目から外を見て歩いている。アユーンからチトラールまで10ルピー。ワゴンのドライバーはホテルまで車をつけてくれた。

前回と同じAl Falooq Hotelにチェックイン。シングル100ルピーを値切って80ルピーにしてもらった。グルミットとフンザとギルギットで会ったイギリス人に再会。彼は70ルピーで泊まっていた。ちっ。ホテルのマネージャが「Milk teaとカワチャイ、どっちがいい?」と聞くので、「マンゴージュースがいい」と言うと、近くのレストランでマンゴージュース(10ルピー)をおごってくれた。

明日ペシャワールに移動したいと言ったら、バスステーションに連れていってくれて交渉をしてくれた。帰り、昨日別れた「すっとこどっこい」さん(他1名)に再会した。

ホテルの向かいの私設両替屋のアフガニスタン人にタダチャイをたくさんいただいた。ジュースもおごってくれた。結婚の話しをしてくるので、また結婚かよーと思っていたら、告白が始まった。片言の英語で必死にLoveだの何だの言ってくる。あ−ウザイ!夜待っているからここに来て欲しいとか、今晩部屋に行っていいか?とか。。。。LoveもLikeもNO!だ!Very Problemじゃ!NO!を連発してたら、「じゃあKissだけでも!」。疲れる。。。。なんなのこいつら。結婚してくれっていうのは何度もあったけど、LoveとかKissなんていわれたのは初めてだわ。これからイラン、トルコ、シリア、ヨルダン、エジプトと進むわけだけど、全部イスラム教では。。。?ムスリムの国は疲れる。ルート変更を考えるべきかなあ。

2001年5月28日 チトラルからペシャワールに移動
今日はペシャワールに移動する日。朝5時30分に起床した。ミンゴーラに移動する予定だった「すっとこどっこい」さんは下痢がひどいのでもう1泊チトラールに残ることになった。6時30分発のワゴンは7時前に出発。一番前の女性席は私とオーストラリア人だった。舗装されていない崖っぷちの山道を走る。ロワライ峠(Lowari Pass:3200m)越えだ。途中2度、ギアチェンジができなくなり、修理のため炎天下の中ストップ。ガイドブックには10時間で着くと書いてあるが、いつ着くかわからなくなってきた。

ペシャワールは夜出歩かない方がいいと書いてあるような街なので不安。Dirという所で14時頃昼食。途中で大雨になった。ワゴンはメーター類は全部壊れていて、ワイパーも壊れているので前が見づらく、怖い。それでも猛スピードで走る。

陽が暮れかけた19時前にペシャワールのジェネラルバススタンドに到着。ワゴンから降りるとたちまち10人以上のオートリキシャーのおやじたちに囲まれる。「サダルロードのツーリストイン!」と言うと、1人のおじいさんが「OK。60で行く」と言う。たぶん倍以上ぼられていると思う。でも疲れていたし、4ルピーほどで行けるバスを探すのも面倒だし、暑いし、荷物も重いので、妥協して、もう1人の日本人と2人でシェアすることにした。

念のため「ツーリストインはどこにある?」と聞いてみたら、どうやら知らないらしい。話しにならない。私たちを囲んでいたおやじの1人が知っていたので、そいつのオートリキシャーで行くことに。「60で行く」というので、「2人で60」ということと、「60ドルではなく、60ルピー」ということを強調して、お互いに納得した上でやっと乗った。大声で交渉するから声が枯れてしまった。

ペシャワールは車がたくさん走っていて、信号もある。でかいビルもあり、女の人も歩いている。おどろきの連続。アフガニスタンとの国境が近いので、アフガニーも多い。手元の地図でチェックしながらの乗車。久しぶりの都会なので気が抜けない。パキスタンに入って今まで一番の都会である。案の定、リキシャーはホテルを通り過ぎた。ストップをかけて、ホテルまで戻らせて、荷物を運ばせて、60ルピーを払い、さっさとホテルに入った。

ホテルに入ってすぐ、あきこさんカップルを発見!富田くんも居た。なんと6回目の再開。日本人がいっぱい。長細い部屋にずらっとベッドが並んだだけのドミトリー。100ルピー。高っ!

2001年5月29日 ペシャワール(Peshawar)
旧市街のオールドバザールへあきこさんと行った。イランビザ申請のために、黒いショールが必要なので布地屋を中心に回った。1時間ほど回って、一番値切れた店で購入した。100ルピー。次に貴金属のバザールへ。1時間近くうろついて一番値切れた店でピアスを購入。80ルピー。あちらの言い値は150ルピーだったけど、どうしてもどの店でも120ルピー以下に下がらないので、もういらないやって思ってぶらぶらしていたら、日本での月収の話しをしてきた人がいた。私が長野に居た頃の月収を素直に言ったら、「あなたは収入が少ないので、80ルピーで売りましょう」と言ってくれたのだ。ありがたいですなぁ。1人でバザールに行くより、女の子同士で行くととても楽しい。

2001年5月30日 ペシャワール(Peshawar)から
今、武器と麻薬の町、ペシャワールに居ます。怖い所だと思っていたけれど、女の人が歩いているのでびっくりしました。外を出歩く女の人なんてパキスタンで初めて見ました。ファーストフードもあるし、香水や化粧品も売っていてとても都会です。
今まで1ヶ月近く山の中だったので何でもある都会に驚いています。毎日食べまくりです。
ここでは、Tourist Innに泊まっていて、ドミで1泊100Pr。高いです。倍に値上がりしています。夜は暑くてよく眠れません。

今日イランビザの申請に行ってきました。次の日曜日に面接です。髪の毛や肌が見えると違法なので、髪の毛を全部黒いショールに隠して行かなければなりません。くそ暑いのにますます暑い。蒸し風呂みたいです。ビザは、面接の2週間後に発給されると思います。2週間も何しよう。。。。ここは暑いしな〜。

そうそう、インドは暑いし、ちょっと怖いので行くのを止めました。もしイランビザの申請が通らなければ、トルコに飛びます。宿で一緒の日本人達は、皆んなアフガニスタンに行くために、アフガンビザを申請しています。国境も近いのでアフガンも魅力的。

パキスタンでは、これだけ贅沢に遊んで効率悪く移動しまくっていますが、1ヶ月で日本円にして2万円ぐらいで済んでいます。中国では、1ヶ月で7万円ぐらいしたのに。

昨日世界地図を見ていて、この1ヶ月移動した距離を見てみました。地図上ではほんの少ししか移動していないのでちょっとがっくりでした。ギルギットからここまで1回も日本人の女の子を見ていません。いつもドミに女は私一人です。でもほんとに日本人はどこにでもたくさんいますね〜。このコンピュータのキーボードはSUNのやつや。ではでは。

2001年5月30日 ペシャワール:イラン領事館
8時にイラン領事館が開くと聞いていたので7時40分頃に行ったら、9時に開くと言われた。初日に面接があると聞いていたので、パキスタンの民族衣装に黒いショールで髪の毛を全部隠して行った。暑い。かなり暑い。パキスタン人や他の人々は歩道に並ばされていたけれど、私だけ門の中の木陰で座って待たせてくれた。印象を良くするため銃を持った警備の人たち、軍人?にもにっこりほほえむ私。おかげてはじめに中に入らせてくれた。けれど、その日に面接はなく、日曜日の10時に改めて来るように言われた。4日後だよ。4日もペシャワールに居なくてはならない。帰りにインターネットをする。インドのアリムトサルとラホールと日本から日本語でメールが来ていた。読めないから日本語で送ってくるのはやめておくれ。暑い。バテバテだ。

宿に戻ると、男の子たちがスマグラーマーケット(ハルハナマーケット)に行く、と言うのでついていくことにした。トライバルエリアの中にあるバザールで、銃や麻薬類の大密輸市場である。バスを降りると早速ハシシはいらないか?とたくさん声を掛けられる。ちょっと立ち止まると、たちまち取り囲まれる。トライバルエリアでは、パキスタンの法律はきかず、殺されたり、さらわれても仕方がないエリアである。トライバルエリアの入口にはポリスが居て、自由に出入りはできない。旅行者は立入り禁止だ。ただ、抜け道があるので、みんなは行くことになったけど、私は暑さでふらふらだったので、何かあったとき逃げられないと思い、行くのは止めた。

帰ってきたみんなに話を聞くと、「かなり危険」らしい。店の人に、「ここは危険だから早く出たほうがいい」と言われたようだ。ハシシは上質でかなりとべると吸った人が言っていた。ペン型ピストルの写真も見せてもらったけど、ペンにしか見えないぐらい小さくて、300ルピー(約600円)。ポルノ系の商品はトライバルエリアの手前にも売っていた。男の子たちはエロトランプを買っていたけれど、中国のエロトランプと比べ物にならないくらい激しいシーンのトランプだった。それを持ってアフガンビザの申請に行くと、早くビザがもらえるらしい。もし、イランで見つかったら、新聞に載るよ。

2001年5月31日 ペシャワール:
暑い。男の子たちは今日もスマグラーマーケットへ。私は、ジュースや水の飲みすぎで胃腸がとても弱っているので宿でお休み。

明日GPO(中央郵便局)から日本に送ろうと思っていた短パンを箱から出して着た。パキスタンでは女性は肌を出してはいけないけれど、あまりにも暑いので宿の中だけは、それで過ごすことにした。外に出るときはいつもショールを頭から巻いていたけれど、今日はキャップを深くかぶりグラサンをして行った。今日は宿の近くのスーパーまでしか歩いていない。胃が痛く、水下痢。スマグラーマーケットに行った男の子たちは、また別バージョンのエロトランプを買ってきていた。

最近、インスタントラーメン、ゆで卵、マンゴー、サンドイッチが毎日の食事。水分は2リットル近くとっている。夜はみんなでトマトとミートのスパゲティを作った。胃が痛くてあまり食べられず残念。足が虫に食われて短パンをはくと目立つ。左足の膝下だけで35箇所以上。両手両足さされまくり。マラリアにならないことを祈る。

2001年5月31日 ペシャワール:夜のつぶやき
暑くて眠れへんわ。最近考えていること。

ルーマニアは涼しいらしい。海がとても良いらしい。涼しいところはどこ?と聞くとだいたい「スイス」という返事がきます。物価は安いのかな。

当初の予定:パキスタン-->イラン-->トルコ-->シリア-->レバノン-->ヨルダン-->エジプト

こんなんどう?:パキスタン-->イラン-->トルコ-->タイ-->ラオス-->中国雲南省-->中国長江下り-->どこかの港-->韓国-->九州-->京都

11月頃日本に戻って3月半ばまで働いて、4月半ばのタイの水かけ祭りに間に合うように出発。12、1、2月と3ヶ月長野で働くとか。でも予約センターは暇やし雇ってくれへんかも。ほんで、船で上海-->広州-->昆明-->ハノイ-->ベトナム南下-->カンボジアでアンコールワット-->タイ。これやったら水かけ祭りに間に合わへんな。う〜ん、う〜ん。

私を旅に誘ったKyoppyは、旅に出て半年も経つのにまだ東南アジアに居る。ってことは、東南アジアで半年以上過ごせるんや。

パキスタン-->イラン-->トルコ-->タイ-->ラオス-->中国雲南省-->ベトナム-->カンボジア-->タイ-->マレーシア-->インドネシア-->マレーシア-->タイの水かけ祭り

う〜ん、合わへん。う〜ん、う〜ん。冬の間、インドを回るとか。北は寒いけど、南なら良いだろう。

2001年6月1日 ペシャワール:GPOへ
早起きしてシャワーを浴びて今日はGPO(中央郵便局)へ。朝から暑い。今日も暑くなりそう。ギルギットでもらったゆうパックの箱に、寝袋と長袖やいらないものを詰めて持って行った。親切なパキスタン人とポリスに教えてもらいながらの作業。

  1. 箱の中身をチェック。
  2. 白い布で包むために外に居る縫師に箱を渡す。
  3. 箱のサイズぴったりに白い布で縫いつけてくれる(30ルピー)
  4. 重さを測る。値段を布に記入。
  5. 布に宛先を記入。
  6. 申請用紙に内容物と価値を記入。
  7. もう一度、外に持っていき、用紙を荷物に縫い付けてもらう(無料)
  8. お金を払う。
  9. おつりをもらって終了。

1時間かかりました。両替をしにサダルロードの両替屋へ。1$(T/C)=62.2ルピー。暑くて他の両替屋を探すのが面倒でレートが悪かったけど妥協した。箱に入らなかったトレーナーを50ルピーで両替屋に売った。10時30分頃宿に戻った。ひたすら寝る。暑い。宿のファンを最大に回して、一番涼しい場所で40℃。暑い。日なたを歩くと吸い込む空気が熱い。体温以上だしね。日なたはいったい何度なんだろう。5分以上歩くのは無理。

夜はまたみんなで自炊。冷やし中華を作った。なかなか良い出来。しかし自炊したほうが高くつく。あー!一番奥の部屋だけファンも電気も切れたぞ。暑くて眠れん。外で寝ようかな。

2001年6月2日 ペシャワール:暑いで、ほんま
昨夜はあまりの暑さのため、外に椅子を並べて寝た。2時間ぐらいしか眠れず。虫にさされまくり。合計で全身100箇所は越えているね。

昨日女の子が1人ラワールピンディから来た。女の子だ!嬉しい。会ってすぐ「まいさんですか?」と言われてびっくり。ピンディの宿で会った人に「ペシャワールのTourist Innに、まいちゃんっていういい子がいるから大丈夫」って言われたらしい。うれしいね。彼女はペシャワールのバザールを見に来たけれど、40度近くの熱を出して寝込んでしまった。さらにひどい下痢になり、今日ピンディに帰ってしまった。明日の飛行機で日本に帰国するらしい。彼女に限らず、ここに来た人は何らかの病気になってしまう。あきこさんは、2年前、ここでA型肝炎になっている。

朝7時頃、野菜を買いに行った。太陽が昇ると動けなくなるので、トマト4個、きゅうり2本、玉葱3個で10ルピー(約20円)。小さいじゃがいも1個を手にとって「give me」と言ったらタダでくれた。もっと大きいのにすればよかったぜ。宿に戻って、去っていった人たちからもらったパスタ、チキンコンソメを使い、玉葱と芋とトマトとにんにくでスープを作って食べた。デザートはヨーグルトにマンゴーと蜂蜜を入れて食べ、ミルクティも作った。いやあ、満腹。お昼まで眠る。お昼は、インスタントラーメンに玉葱、もらった里芋を入れて食べた。夕方まで眠る。

暑いねん。ほんまに。45℃は軽く越えている。夕方日陰で40℃だった。相変わらず下痢は続く。水のがぶ飲みをやめて、ホットにして飲むようにつとめてみたけれど、時々水のがぶ飲み。おしっこはほとんど出ない。汗はふき出る。夜はキュウリをスティック状に切って塩をまぶして食べた。

2001年6月3日 ペシャワール:イランビザの面接に行かず
今日はイランビザの面接の日だけど、行かなかった。この暑い中、黒いチャドル着るのイヤだったし、イスラムの国がイヤになってきた。

2001年6月3日 ペシャワールからラワールピンディへ移動
1週間居たペシャワールを去った。1週間、ほとんどメンバーが変らず、みんなでわいわいやっていたのでちょっとさみしい。朝6時30分頃、フライングコーチ乗り場に到着し、大型エアコンバスに乗り込む。50ルピー。荷物を降ろすとき胸を触られたので、後ろから股間に思いっきりケリを入れた。バスに乗ってもウェストバッグを降ろせだの言いながら手や肩を触るので思いっきりひっぱたいた。全く!腹が立つ。

3時間で到着。何も無い道路に降ろされ、途方にくれる。走ってきたスズキをつかまえ、とりあえず市内まで乗る。5ルピー。街の端の方で降ろされたので、目指すホテル、Popular Innまで歩いた。Popular Innは、世界中のパッカーが集まる有名宿でチャラス代込みで125ルピー。チャラスはやんなくても125ルピー。損した気分だ。宿に着いたら「すっとこどっこい」さんが居た。良かったー。生きていた。チトラールで寝込んでしまった「すっとこどっこい」さんを置いてきてしまったので、心配していました。

ペシャワールで葉書を何枚も書いたので、GPOに出しに行って少し街を散歩。たいして面白くないな。空がどんよりして風もあり、ぽつぽつと雨。私がペシャワールに居た時、ピンディから来た人がみんな、「ペシャワールよりピンディの方が暑い」と言っていたけれど、そんなことなくて、涼しいぐらい。夕方には雷とともにどしゃぶりの雨になった。涼しいわー。暑さが戻る前に北に行きたいので、宿に居る日本人に声をかけて、明日北に行く人を探し出して一緒に行くことになった。

2001年6月4日 ラワールピンディ(Rawalpindi)
いやいやいや。まったくどうしていいものやら。 イランビザ申請の面接が日曜日だったにも関わらず、行きませんでした。 だってさー、暑いもん!45度超えてるねんで! 黒いチャドルなんて着てられへんで、ホンマ。 イスラム圏もイヤになってきた。 これからイラン、トルコ、シリア、ヨルダン、エジプト、ってずっと「アッラー」じゃん。 あーやだやだ。男ならよかったのに。 今日ザック降ろす時に手伝ってくれたパキスタン人に胸触られたから、思いっきり後ろから股間に蹴り入れてやったぜ。 この痴漢の多さもイヤ。 暑いからショール頭からはずしたら、ちゃんとショール巻くように注意されたしさ。 あーやだやだ。 ゆっくり考えるために一度北に戻ります。 明日夜行バスでギルギット行って、ビザの延長手続きして、フンザあたりまで戻る。 そんなわけでしばらくメールできません。 ではでは。

2001年6月5日 ラワールピンディ:バス満席で移動できず


2001年6月6日 ラワールピンディからギルギットへ:夜行バス
今日は移動の日。ピールワダイバスターミナル16時発のエアコン付き大型バス「Silk Route」(510Rs)。NATCOのエアコン付きバスはエアコン効きません(460Rs)。乗り心地もスピードも全然違います。たった50Rsの差なのに、「Silk Route」は、中流階級の人々多し。私の席は、1つしかないシングルシートでVIP席でした。よかったー。痴漢対策に安全ピンを用意していたけれど、シングルなので安心です。ガイドブックに「道が悪い」と書いてあったので覚悟していたけれど、全然大丈夫。日本の基準では悪いけど、私の「道」の感覚はパキスタンが基準になっているので、舗装してあるからぜ〜んぜん大丈夫。ジャンプもしないし、座席も飛ばないし雨漏りもしない。

22時頃夕食。きれいなレストランで日本の団体客も立ち寄るらしく、近ツーなど日本の旅行会社のステッカーが店に貼ってあった。すごく辛いビリアーニとチャイで50Rs。

2001年6月7日 ギルギット到着
朝8時にギルギットに到着。いつものNew Tourist Cottageに泊まるので近くでバスを止めてもらった。屋根の荷物を受け取り宿へ。オーナーのケイコさんは、「あらー!」と驚いていました。2週間前にシャンドール峠を越えた私が、また現れたので、「どこから来たのー?」と聞かれました。ギルギットから北に行っては戻って、西に行っては戻って、また北に行って。。。ケイコさんは私とぶんちゃんが友達ということを知っているので、ぶんちゃんが昨日自転車で北に向かったことを聞きました。そして一緒に国境を越えたごろうさんがロバで旅するためにフンザにロバを買いに行ったことを知りました。私も明日フンザに行くのでうまくいけばどちらかに合えるかも。

午前中は、ビザ延長のためDeputy Commussioner Officeへ。10時に行ってパスポートと写真1枚と申請書を提出。11時30分に手続き完了。7月17日まで延長できました。費用は無料。

宿に戻ってザックを見ていてふと思った。荷物が減っている。。。。ザックの脇にくくりつけていた袋が消えて無くなっているじゃないの。中身は民族衣装と黒のショール。ああ、600Rs分が。。。。。たぶん、バスの屋根の上にでも落ちているのでしょう。宿で取られた可能性はゼロ%なので。民族衣装はパキスタンを出る前に処分しようと思っていたし、イランへ行くのをやめたので黒のショールも必要ないし、まあいいです。

午後は、ずっと漫画を読んでいました。吉川英治「宮本武蔵」を漫画化したやつ。9巻までしかなかった。原作を読んでみたいな。

2001年6月8日 ギルギットからフンザに移動
朝8時に宿を出た。ケイコさんに「また1ケ月後ぐらいに!」と言われた。次はいつギルギットかな。1ケ月以内には戻るだろうけど。カリマバード(フンザ)行きのワゴン乗り場までスズキに乗って行った。人がなかなか集まらず、ワゴンは1時間以上待ってやっと出発。途中何度も立ち話のために止まったので、フンザに着いたのは12時30分だった。

今回はHaider innにチェックイン。Old Hunza innは、ドミが3人部屋なので、もし男の人と2人きりになった場合、恐ろしい。それに外から部屋が見えないのが怖い。Haider innは4人ドミで、外から部屋が丸見えなので少しは安心できる。部屋に案内してもらうと、ごろうさんが居て、隣のベッドだった。外にロバが居たので予想はできたけど。。そして、ぶんちゃんは、少し前に北に向かって行ってしまった後だった。残念。ほぼ1ヶ月ぶりの再会。ごろうさんは、陽に焼けて真っ黒。そして少しお疲れ気味だった。ロバとの旅は大変そう。ザックは自分で背負って、ロバを引っ張ってひたすら歩く。1人で歩いていたほうがよっぽど楽らしい。フンザは涼しい。静か。

Haider innの情報ノートに最近パキスタン人に襲われた女性たちの情報がたくさん書かれていた。その中に私が襲われた時のことも正確に書かれていたので驚いた。自分でこんなこというのもなんだけど、「女1人でパキスタン旅行はやめたほうがいい!」。はっきり言って危険。男の子たちも女で一人旅している人は見ていて怖いらしい。でもパキスタンは良い所がたくさんあるよ。誰かパートナーを見つけて一緒に旅するといいでしょう。

2001年6月9日 フンザ
そういえば、下痢が止まった。涼しいので汗疹も無くなった。

朝食:フンザブレッド、蜂蜜、チャイ
昼食:オムライス、チャイ
夕食:ダウロ、キムチ、オクラの煮込み、キャベツの煮込み、ダル、ご飯、カスタード、チャイ

すべてHaider innのメニューです。

2001年6月10日 フンザ
朝食:オムライス、チャイ
昼食:左隣の部屋の人からもらったサラダ、右隣の部屋の人からもらった桃、ラワールピンディからずっと持ってきたマンゴー
夕食:宿の食事

この宿には1ヶ月以上泊まっている人が結構居て、明日みんな去るらしく寂しくなる。朝から晩までガンジャやチャラスをやっている人が多い。でも話しは面白いので部屋に遊びに行ってます。

2001年6月11日 フンザ
朝食:コーンフレーク with ミルク、クッキー
昼食:チャパティ、チャイ
夕食:宿の食事、ケバブ

今日は日本の大使が来るとかで村がお祭りムード。ポリスもいっぱい。大使館の大使なのか、親善大使なのか。。。?日本のプレジデントが来ると言っている村人もいてよくわからない。とりあえず、セレモニー会場のポログランドに行ってみた。村の人々がたくさん集まって来ていて、中の様子をうかがっていると、ボーイスカウトのような格好をした人が会場内の「Foreigner」席に案内してくれた。1時間ほどすると、鼓笛隊に先導されて日本人のおじさんとその奥さんが会場に入ってきた。なんだか普通のおじさん。たぶん大使かな。日本のお金で、ここフンザの下水処理場か浄水場の工事をやるらしく、そのセレモニーだった。

村の学生や村人による歓迎の踊りが続く。とても楽しそうで私も踊りたくなった。大使の夫婦はつまらなさそうに手元の資料をずっと見ていた。年中こんなダンスや音楽を聞いているんだろうな。でもそれが彼らの仕事なのだ。1時間半くらい続いたところで私は宿に戻った。見ているだけだったけどとても楽しかった。またパキスタンが好きになった。もっと女が旅しやすくなったら最高!

夕食は宿でとって、隣の部屋のガンジャパーティに参加した。といっても、私は吸わないので話しをするだけ。時間の経過とともに一人一人「きまって」いくので見ていると面白い。ネタはこの宿のコックが密売人から仕入れて、それを欲しい人が買う仕組み。最近入荷したネタは質がとてもいいらしく、みんな買っていた。他はペシャワールから来た人のネタを使ったり。ペシャワールはアフガン産の良質のハシシの大マーケット。私もペシャワールでは、「ハシシ?」と何度も声をかけられた。そういえば、昨日「明日チェックアウトする」と言っていた人たちはみんなチェックアウトできず残っている。そして「明日は絶対出る」と言っているが。。。。

2001年6月12日 フンザ
やはりみんなチェックアウトできずにだらだらしている。そして「明日はでる!」と言っている。私はいつ出ようか?私はインド行きの決意を固めたので一緒に行ってくれる人を探したところ、京大を休学中のひろあつくんがOKしてくれたので、25日にラワールピンディのポピュラーインで落ち合うことになった。2人ともインドビザを持っていないので一緒に申請して、その4日後ぐらいに受け取って、ラホール(パキスタン)-->アムリトサル(インド)-->デリー-->ダラムサラまでご一緒させてもらう予定。ひろあつくんは7月10日にデリーの空港まで友人を迎えに行くらしいので、7月9日にはデリーにいるでしょう。もし、国境かアムリトサルでダラムサラに行く人が見つかれば、その人と一緒に行きます。デリーを経由するとダラムサラまで遠回りになるのでね。ダラムサラから来た人が、今雨季が終わってとてもいい季節だよーと言っていた。マナーリーの温泉も楽しみ。

朝食:コーンフレーク with ミルク、クッキー
昼食:プラタ、チャイ
夕食:宿の食事

夕食後、4人でしゃべっていたら、Aくんは私の弟の大学時代の同級生で、AくんとBくんは家が近所で、AくんとCくんは高校時代に共通の友達を持っているという関係だった。偶然って面白い。みんなひとり旅なのに。

2001年6月13日 フンザ
今日はとっても涼しい。昨日は暑かったのに。暑いといってもペシャワールほどじゃないけどね。「明日出る」と言っていた人はみんなチェックアウトした。11日に宿を出てロバと旅に出たごろうさんは、もうギルギットに到着したらしい。速い。ごろうさん、お疲れ様でした。そして、午後、ぶんちゃんがチャリでグルミットからやってきた。1ヶ月ぶりの再会。チャリはギアが良くないらしい。でも元気そうだった。中国から一緒に国境を越えたメンバーと全員再会できた。ほっとした。みんなそれぞれの行き先に去っていく。別れはやっぱり寂しい。

あきこさんカップル:インド入国済み。あきこさん、夏に帰国予定。

ぶんちゃん:イラン-->トルコ-->南欧-->東欧。年内に帰国予定(?)

ごろうさん:イラン-->トルコ-->東欧か中東か悩み中。9月帰国予定。

富田君:アフガニスタン-->イラン-->トルクメニスタン-->ヨーロッパ-->ロカ岬ゴール

私:インド-->ネパール?来年4月帰国予定(ホント?)

明日再びグルミットに行きます。私を襲った男はクビになったらしい。でも別のホテルに泊まる予定。4人で行く。

2001年6月14日 フンザからグルミットに移動
午後にHaider innをチェックアウトした。ハイダー爺がいつまでも見送ってくれて去るのがちょっとさみしかった。カリマバードのゼロポイントからスズキでアーリアバードまで行き、ヒッチ。なかなか車が通りかからないので近くに止まっていたスズキで、30Rsで交渉して行くことになった。

グルミットに到着し、シャトバールインという宿へ。1 room 200Rsと言われたけど、頑張って交渉して1 Bed 60Rsまで下げさせた。でも40Rsで泊まった人を知っているので60から下がらなかったのが悔しい。ホテルはすごくきれい。ベッドのマットはふかふかでシーツも洗濯してあるし、バスルームがタイル貼り。タオルも付いている。庭が小さいのがマイナス。部屋はWなので4年半も旅している男の子(年下なのだ)とシェアした。マイペースでおっとりした子で、とても4年半も旅しているようには見えない。ホテルの夕食は高い。夕食も値切ってChinese riceとVegetable soupを50Rsで食べた。

夜、屋上で星を見た。天の川がきれい。寒いので部屋に戻ってハシシを回す。私は吸わないので見ているだけ。ハシシやコカインや紙やキノコの話しで盛り上がっていた。全部経験が無いので聞いているだけだった。けど、なんだか勉強になった。

2001年6月15日 グルミット
朝、外を見ていたら従業員に「日本人が来た!このホテルに泊まるように言ってくれ!」と言われたので見に行くと、フンザで一緒にトランプで遊んだ21歳の学生さんだった。けれど値段交渉で80Rsから下がらなかったので、彼は怒って出て行った。彼がVillage Guest Houseに行くと言うので、先月10日に襲われたそのG.Hに勇気を出して一緒に行ってみることにした。。従業員はすべて入れ替わっていた。マネージャにお詫びの言葉を長々ともらった。そしてビリアーニとチャイをいただいた。もう大丈夫だからもう一度泊まって欲しいとお願いされてしまった。W room、シャワー、トイレ付きの部屋を1人で使って100Rsでいいと言うので、明日宿を移ることにした。庭が広く静かで眺めもいいし、ボスもいい人なのでOKでしょう。

学生さんと一緒に村を散歩した。知らない子供やおじさんに「前にあなたに会った!」といわれた。よく覚えているな。。。。前回来たとき、ぶんちゃんに熱い視線を送っていたボロレストランのホモ兄さんはゴジャールいちの高級ホテルの従業員になっていた。「前、一緒に来てた友達はどこだ?」と聞かれたので、「1人は一週間前にロバと一緒にここを通ったでしょう?」と言うと、Yes!Yes!と大喜びしていた。「もう1人は3日前にここを自転車で通ったでしょ?あなたは彼の事が好きだよね!」と言うと、「どうして好きって知ってる?」と言って、兄さんは、ずっと思い出し笑いをしていた。やっぱホモなのね。なんかやらしー。かっこいいのになぁ。

学生さんは、旅行会社でバイトしていたらしく、グルミットのツアーで使えそうなホテルを下調べしていた。マルコポーロインに行ったとき、レセプションで「今日、日本の女優が撮影のために泊まっている」と言われた。学生さんはカメラマンを目指していたこともあったらしく、カメラマンに話しを聞きたがっていた。夜帰ってくると言われたので出直すことにした。

夜、同じ宿の4人でマルコポーロインに行った。女優が誰なのかわからないけど、ミーハー気分で行ってみた。そしたら、偶然夜の撮影が始まる所で、地元の詩人とシタール演奏家がスタンバイしていた。民族衣装を着てたばこを吸いながらのんびり歩いている女の人が女優だった。誰だろう。。。知らない顔だった。「えみ子さん」と呼ばれていたと思う。20代後半ぐらいで化粧が濃い。どこにでもいそうなOLっぽい人。俳優さんは「カイさん」と呼ばれていてとっても渋いおじさま。立って準備を見学していると、「立っているとしんどいからどうぞ座ってください」と、流暢な日本語を話すパキスタン人に言われた。彼は番組のコーディネータだった。そして、5月9日のパスーの結婚式を見に行ったときの新郎さんだった。私がギルギットでお世話になったカズコさん夫婦やバダルの事も知っていた。世界は狭い。

シタールの演奏付き詩の朗読が終わった。詩人は深い悲しみを背負っていて、それを詩にしているので、詩を朗読中泣いてしまうこともあるらしい。実際、俳優さんは泣いていた。。。。演技なのか心からなのかはわからんが。

太鼓の音と人々の盛り上がっている声がずっと聞こえていたので、そっちへ行ってみることにした。真っ暗な中、音だけを頼りに3人で歩いていった。カラチの学生が踊っていた。演奏は地元の人々がしていた。しばらく見ていると撮影隊がやってきた。ついでなので撮っておくらしい。友達2人は帰ってしまった。撮影隊の人が「車で送ってあげましょう」と言ってくれたので、一緒に乗せてもらった。私の横に女優さんが座ってきて「1人ではあぶないから気をつけてね」というような注意&心配をされた。ぶりっこっぽい声。アニメのキャラっぽい甘えたような声の人。う〜ん、誰なんだろう。有名なのかなあ。

<撮影隊の情報>

宿に戻って夜中の3時までハシシを回す。私は吸わないので人のベッドでグーグー寝ていた。

2001年6月16日 グルミット
お昼頃ホテルを移った。雨が降っていたので出かけることもできず、葉書を書いたりした。日本を出て来週で3ヶ月。今まで47枚の葉書を書いた。意外と筆まめな私。

夕方、昨日まで泊まっていたホテルにいる3人の日本人の所に遊びに行った。雨で外出できないので一日中ハシシを回していたらしい。目がくぼんでがりがりで怖い。人柄はとてもいい人たちだけどね。私は食べまくっているし、動かないので太っていきます。昨日も今日も夜はボスとお酒を飲んだ。昨日はウォッカ、今日は白ワイン。Goodねー。

2001年6月17日 グルミット
朝から雨。停電。ずっと停電していて1日に1〜2時間だけつく。しかも昼間。気温は低く寒い。ペシャワールは50℃近かったのに。まあ、暑いより寒いほうがいいわ。

2001年6月18日 グルミット
フンザから4人の日本人が来た。一緒にトレッキングに行く約束をしていた人がやっと来た。明日は氷河トレッキングです。

2001年6月19日 グルミット:氷河トレッキング
グルキン氷河横断トレッキング。ガイドブックには所要時間3〜4時間と書いてあるので、お散歩気分で楽しく行きましょう、という事で7時間かけて行くことを目標にした。女2人、男3人でのトレッキング。1人を除いてみんな北パキスタン初トレッキング。

グルミット村-->カマリス村(約30分)

11時にグルミット出発。ちょうど学校のランチタイムに入ったのでカマリス村に帰る子どもたちと一緒に歩く。ずっと坂。坂がきつくて心臓バクバク。息切れ。標高も高いのでね。子どもの1人が家に招待してくれた。35人で住んでいる。しばらく休憩させてもらった。

カマリス村-->グルキン村

グルキン村に行くおじさんに出会ったのでついて行く。慣れた足取りでとても速い。グルキン村が見渡せる所までくると、おじさんは「急いでいるから」と言って行ってしまった。私たちは、ぜーぜー言いながらおじさんを見送り休憩した。グルキン村に到着してレストランかショップがないか村人に聞いて回ったが、どうやら一軒もないらしい。ショップさえないとは。。。道端でしゃべっていた女3人が「私たちの家に来れば、チャイとブレッドがあるから来い」と言うのでおじゃまさせてもらった。見た目は30歳以上の彼女たちだけど、実際は19と20歳だった。こちらの人はふけるのが早い。日差しがきついので子どもでも手が真っ黒でがさがさ。顔はめちゃくちゃかわいい。金髪で青い目の子どもが多い。

グルキン村-->氷河

村の壁のようになっている石や岩だらけの崖をよじ登る。崖くずれがあると怖いのでみんなばらばらの場所からよじ登った。つらー。2つ岩を越えては休憩する。やっと崖の上まで到着。一面の波打つ氷河だった。

グルキン氷河

氷河といっても真っ白のきれいなのじゃなく、砂や岩の下にあるので黒ずんでいる。山の上の方のはまだ新しくきれい。グルキン村でガイドを雇うつもりだったのに、見つからなかったので、自力で来たけれど、「道」なんてのはないのでどこへ進んでいいのかわからない。前も右も左も氷河。後ろは崖。氷河の氷はどんどん溶けているのでひっきりなしに岩や石の崩れ落ちる音がしている。トレッキング好きの人が道を探してくると言って、動物のようにぴょんぴょんと岩を飛び跳ねながら行ってしまった。すごい。残った私たちはくたくたで立ち上がることもできずにいた。しばらくすると、帰ってきたけど、道はなかったらしい。

もう16時。陽は沈んで肌寒い。目の前に広がるこの氷河を北に向かって横断するしかない。氷河の上に石や砂が乗っているので滑りやすい。何度も滑ってずり落ちた。氷河の裂け目や氷の洞窟が時々現れる。覗くたびに「死体があるんじゃないか?」と、どきどきした。それぐらいとても危ないトレッキング。落ちてしまったら助からないだろうな。休み休み少しずつ進んでやっと氷河横断を終り、フサニの村までたどりついた。

つらかったけど、良いメンバーとトレッキングできたのでよかった。帰りはジープをヒッチした。ジープに乗っていた人が私のことを知っていた。フンザにいたとき、1回だけ食べた立ち食いケバフ屋の兄ちゃんだった。よく覚えているなあ。8時間のトレッキングでした。半分ぐらいは休憩時間かな。。。。

2001年6月20日 グルミットからギルギットへ移動
トータル15日間滞在したグルミットを去り、ジープをヒッチしてギルギットまで戻りました。

2001年6月21日 ギルギットから
インターネットアクセスが出来るギルギットまで下りてきました。この間の行動は、6月6日夜行バスでギルギットへ、7日ギルギット、8日〜13日までフンザ、14日〜19日までグルミット、20日からギルギットです。22日までギルギットに滞在、23日夜行バスでラワールピンディに向かいます。

写真を現像。今日も停電。今までで一番きれいな星空だった。

2001年6月22日 ギルギットから
バダルにコンピュータの不調を直してほしいと頼まれて行ってみたけど、直せなかったのがくやしい。今までの不調は全部直してみせたのに。

明日ラワールピンディに移動するので、バスのチケットを買いに行った。来るときは一人だったから510Rsのいいバスに乗ったけど、今回は男の人と一緒なので210Rs(学割)のバスにした。

2001年6月23日 ギルギットからピンディ行きのバス
New Tourist Cottageのオーナー、ケイコさんにお別れのとき、「今度こそ!」といわれた。ははは。何度も戻ってきてるからな。

2001年6月24日 ラワールピンディから
23日Gilgitを離れる日、朝から銃声多発、街は大騒ぎ。 けれど宿に居た約20人の日本人たちは爆竹の音だと思っていた・・・(私も) 道路は封鎖され、店は全てシャッターがおり、軍人と警察だらけ。 死者はいないみたいだから威嚇射撃かな? 夕方には静かになったので移動を決行。バスターミナルまで宿の人に車で送ってもらって無事Gilgitを出発したのでした。 さらば北部パキスタン! すごく楽しかった。 たくさんの人にお世話になりました。 明日、インドビザを申請して来月にはインドに入ります。

2001年6月24日 ラワールピンディ
またPopular innにチェックイン、おやじは私のことを覚えていてくれた。

2001年6月25日 イスラマバード:インド大使館
朝、インドビザの申請をしにイスラマバードのインド大使館へ。申請用紙の職業欄にstudentと書いたので、なぜstudentが長期旅行できるのか、お金はどうやって稼いだのか、時給はいくらか、一日何時間働いていたのかなどなど、どうでもいいことをたくさん聞いてくるので、すべてウソばっかり答えた。この係員は腐っている。こいつの気分しだいでビザがもらえなかったり短期間のビザしかもらえなかったり、singleしかもらえなかったり、やたらと待たされたり、意味も無くまた列の一番後ろに並ばされたりする。これがインドなのか?行く前から腹が立つ。ビザは3〜4日待ちと聞いていたのに、9日待ちになった。宿に戻って再びペシャワールに移動した。

2001年6月26日 ペシャワールに移動
スマグラーマーケットに行った。前回は暑さでふらふらになってしまい、トライバルエリアの直前で帰ってしまったけど、今回は行けた。ハシシ屋は冷房がキンキンに効いていた。銃、酒、ポルノ系、ハシシ、何でも揃っている。銃は300Rs〜、酒200Rs〜、ハシシ1トラ200Rs〜。何も買わなかったけど行けたことに満足。

2001年6月27日 ペシャワール:オールドバザール
オールドバザールに行った。特に欲しいものはなかったので、人の買い物に付き合っただけ。アフガン人は親切で触ってこないのでGood。触ってこないけど、口説いてくる。パキスタン人はすぐ触ってくるので、バザールの大通りで大喧嘩してポリスまで来た。ざまーみやがれ。

2001年6月28日 ペシャワールからラワールピンディに移動
ペシャワールは暑すぎて眠れない。この旅第2回目の睡眠薬を服用した。3時間眠れた。ペシャワールでは普段ハシシやらない人もやって眠るらしいけど、私はやっぱりイヤだ。睡眠薬よりハシシのほうが体にいいよ!ってみんなに説得されたけど。でもやっぱりイヤダー。疲れて体をこわす前にピンディに戻ることにしました。

2001年6月28日 ラワールピンディから
今日、ペシャワールから帰ってきました。やっぱりペシャワールは暑い!!!
けれど、念願のトライバルエリア(ペシャワールからアフガニスタン国境にかけてパキスタンの法律が及ばない部族支配地域。いわゆる無法地帯、主要な産業は武器の製造)に行けたので満足満足。よいこはマネしちゃだめよん。ホテルは日本人がたくさんいて、みんな以前にあった人達ばかりで楽しかったです。7月3日まではラワールピンディで暇してます。暑いよーー。

2001年6月29日 ラワールピンディから
暑い。下痢満開。日本人病気してる人多い。肝炎、腸チフス、アメーバ赤痢、食中毒、なんでもござーいー。保険きれてて病院行かない人もいてかわいそう。タイの病院はきれいなのでタイに飛ぶ人もいるぞ。私ならさっさと日本に帰るね。赤痢やったら隔離病棟やな。うわーいやや。新聞に載りそー。いやいや、ホント病気は怖いで。

2001年7月1日 ラワールピンディから
●絶食(というか、暑くて食べる気しない)
●ORS(ポカリスエットのようなもの。吸収を助ける。激マズ)をたくさん飲む
以上で下痢終了しました。いやあよかったよかった。
今日は雨が降っていて割と涼しい。雨期が始まるのかな。昨日シルクの布を買って、ロングスカートみたいに腰に巻いてます。すんごい涼しい。やっぱシルクよねー。ただケツのでかさが目立つのでチカンされる確率が増えた気がする。
暑くて眠れないとき
●床に水を撒く
●ぬらしたタオルや布を洗濯ひもにぶらさげる
●大きな布をびしょびしょにぬらしてかぶって寝る
●ついでに服もぬらして寝る
ベッドがびしょぬれになるけど涼しいしすぐかわいてしまうのでぜんぜんおっけー。
ではでは

2001年7月2日 ラワールピンディから
今日はKFCに行ってきました。KFCとはなにか?ケンタッキーフライドチキンなのだーー!高かった。。。パキスタンの物価から考えるとすごーく高いっす。けどかなり快適だぞー。冷房はガンガンにきいてるし、従業員は礼儀正しいし、キレイだし、客は金持ちばっかりだからいやらしい目でみられることもないし、入り口とレジの近くには銃をもった警備員がいて安心だし。トイレがかなり感動。
●洋式!
●トイレットペーパーがついている!
●おしり洗うためのシャワーが設置されている!
●汚物入れがある!
●洗面所に液体石鹸がある!
●冷房がきいている!
●手を乾かすドライエアーがある!
でもねー、せっかくKFCに行ったのにチキンは食べられなかった。フルーツサラダとペプシとポテトとコーヒー。ラグメン食べに行っても肉だけは食べられない。。。ベジタリアンになったのかな?それと今日はかなり歩き回ったけど一回もチカンにあわなかった!すごい!記録的だ!チカンを気にせず街を歩きたいものだわ。明日はインドビザの受取(予定)日です。ちゃんと6ヶ月マルチくれるかなぁ。

2001年7月3日 ラワールピンディから
今日はビザの受取日。午後2時に取りに行ったら30分待てと言われて待つ。30分待ったら、あと30分待てと言う。結局3時間も炎天下の中待って、「明日来い」。ふざけんなぁぁぁぁぁぁぁ!!!

2001年7月4日 ラワールピンディから
むっかつくーー!!!パキスタンのインド大使館むかつく。インドの6ヶ月マルチビザ(出入国何回もできるやつ)申請したらおっけーって行ったくせに9日間も待たせといて「2ヶ月のシングルビザならやる」などといいやがる!その理由はそいつが日本に行くとき「日本大使館は15日ビザしかくれなかったから」そんなもん知るかよ!しかも6ヶ月マルチも3ヶ月も2ヶ月もトランジット(15日)もビザ料金が同じなんて絶対におかしい!!!大使館の外の表には1350ルピーって書いてあるのに2950ルピーも要求しやがる!払わなかったらビザくれないし。腐ってる。腐ってる腐ってる腐ってるーーーーー!!!絶対差額はやつのポケットマネーになっている!2ヶ月シングルなんていらねー。てめーの思いどうりにさせるもんか。別の国で6ヶ月マルチgetするもんねー。というわけでビザ代払わず、やつのくやしそうな顔を尻目に大使館を去ってきました。ふーんだ。

さて、どこいこうかなー。

2001年7月5日 ラワールピンディから
明朝タイに飛びます。イスラマバード8時25分発 PIA892バンコク行き。旅行者の間ではPIAは "Perhaps なんとかArrive"(「たぶん着くだろう」という意味)と言われています。たぶん着くでしょう。。。パキスタンで1ヶ月半ぐらいは遊んですごせる料金とフライト料金が同じなんて。。。手持ちのドルキャッシュがほとんど無いので不安だわ。ともかく、タイです。暑そうや。雨季やし。

なんでタイかっていうと、次どこにいくにも航空券が安いから。それから、「タイに帰りたい」「タイは天国だ」。3ヶ月旅してきてこのセリフを何度聞いたことやら。みな、遠い目をしてこのセリフを言うのだ。そんなタイ。気になる。宿の人達にバンコク行きのチケット取れたことを報告したら「いいなぁぁぁぁ、タイに帰りたいなぁ」。私はみんなのあこがれの的になってしまいました。そんなタイ。期待してます。

2001年7月6日 イスラマバードからバンコクへ

たびときどきにっき(タイ編 2001・7・6〜)